【十字架の意味】5分で聖書のポイントが分かるシリーズ
キリスト教において、イエス様の十字架というのは、福音の中心です。
十字架は、シンボルとして使われ、説教のテーマとして、何度も聞くことでしょう。
もっとも語られているテーマです。
しかし、十字架の真の意味が誤解されていることもあります。
皆さんは、十字架の意味を正しく理解しているでしょうか?
十字架によって、一体、何が行われ、何が与えられたのでしょうか?
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、
ペテロの第一の手紙 2:24
十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。
その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
わたしたちの罪をご自分の身に負われたというのは、どういう意味でしょうか?
それは、象徴的な意味でしょうか?
実際の出来事でしょうか?
イエス様が、この地にお生まれになる前から、イエス様の生涯は、預言されていました。
いつ、どこで生まれるのか?
どのような母から生まれるか?
いつ、公生涯を始められるのか?
バプテスマのタイミング、活動エリア、十字架のタイミングや、
その時着られていた衣服がどうなるかまで、生涯の詳細が預言されていました。
それらの預言の中でも、詩篇40章のメシア預言は、特筆すべきものです。
数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、
詩篇 40:12
物見ることができないまでになりました
それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。
イエス様は、純潔で罪のないお方でしたが、
神様は、私たちひとりひとりの罪をイエス様に負わされました。
それで、イエス様は、数えきれないほどの罪を犯した人が感じられるような心の痛みを
感じられたのです。
その御声ひとつで嵐を沈め、ラザロをよみがえらせ、
どんな巧妙なパリサイ人達の罠をも論破したイエス様です。
そのイエス様の心が、消え失せるばかりになるというのです。
実際、この言葉どおり、十字架上で、イエス様の心臓は、張り裂けてしまいました。
私たちには、罪悪感というものがあります。
たとえば、窃盗犯が逃亡中にパトカーを見たらどうなるでしょうか?
心拍数があがり、手に汗をかき、そういった身体的な反応があります。
十字架上のイエス様の苦しみは、肉体的な苦しみと、それ以上に、精神的な苦悩です。
アダムからはじまり、すべての人類の罪が、イエス様に置かれました。
その事がもたらす、精神的な苦悩は、想像を超えるものです。
そして、何より、イエス様が罪となられたことによって、
イエス様は、神様から切り離されてしまいました。
父なる神様への信頼と交わり、その愛の確証こそが、イエス様の全てでした。
しかし、罪人と神様をもうひとたび、つなぐために、
ご自身は、神様との離別さえもいとわなかったのです。
イエス様は、十字架で、こう叫ばれました。
「 ・・・「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」・・・
罪びとが経験する第二の死、命の源である神様から永遠に引き離され、滅びるときに感じる
その苦しみ、絶望、恐れをイエス様は感じられたのです。
神様の憐みの混じらない、怒りの盃を飲みほされていたのです。
罪びとが支払うべき、罪の値である死を、ご自身が受けられ、
ご自身がもっておられた永遠の命を与えられたのです。
私たちを救うためなら、ご自身が神様と別離し、命の源である方が、
無となってもよいと思われるほど、私たちを愛してくださったのです。
私たちの命は、イエス様のその犠牲の上に、与えられている事を忘れてはいけません。