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新米クリスチャン日記:第二十七回「クリスチャンになってよく言われること」

新米クリスチャン日記:第二十七回「クリスチャンになってよく言われること」

こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。
SOSTVのHPに来ていただき、ありがとうございます。

このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを、気ままに書き綴っていくブログです。

久しぶりの更新となってしまいましたが、皆様お元気でしたか?

 

本日は、ボクがクリスチャンになってから、良く聞かれる質問についてまとめてみたいと思います。

 

ボクがまだ神様と出会う前、キリスト教に対してさまざまな誤解や偏見がありました。
しかし聖書を知り、神様と出会い、クリスチャンとして歩んでいく中で、少しだけですが、わかってきたことがあります。

 

今回はボクがノンクリスチャンだった頃、キリスト教に対して引っかかっていた部分を元に、良く聞かれる質問に対して、今のボクなりの回答をまとめてみたいと思います。

 

今回のお話はキリスト教を何も知らない人に向けての回答ですので、細かい説明は省いてなるべくわかりやすく、ざっくりと説明をしていますので、ご了承ください。

 

アナタはキリスト教に入ったの?

クリスチャンになったことを誰かに話せば、一般的には「キリスト教に入信したんだ」と思うのは当然かと思います。

 

その時々で言葉は違えど、「キリスト教に入ったんでしょ?」という前提で、話をされることが多い気がします。 

しかし、おかしな話に聞こえるかもしれませんが、ボクは今でも「キリスト教に入信した」とは思っていません。
キリスト教という宗教に入ったわけではなく、「聖書の神様を信じた」という方が、ボクにとっては正しい表現です。

 

ノンクリスチャンとクリスチャンとの会話のズレの一番のポイントは、宗教と信仰を同じものとして話をしていることだと思います。

 

「宗教は嫌いだ」
「宗教は戦争ばかりおこしているじゃないか」

 

そんなことを思っている方も多いかと思います。
その意見に対してボクは「その通りですね、ボクも同感です」と答えます。

 

多くの人は、宗教を「団体」「組織」「コミュニティ」と捉えています。
でも、ボクが信じているのは団体ではなく、神様です。
この違い、お分かりになるでしょうか?

 

サッカーチームに入ることと、サッカーが好きなことは違いますよね?
サッカーが好きだからサッカーチームに入ることはあっても、そのサッカーチームが問題をおこしたら、サッカーそのものが悪いということになるのでしょうか?

 

ここで敢えて言葉の定義について、一度整理してみたいと思います。

 

宗教と信仰を切り分ける

一般的な日本人がそうであるように、ボクは今でも宗教というものに少なからずネガティブな印象があります。
4回ほど、友人から宗教の勧誘を受けたこともありまして、あんまりいい思い出ではないんですよね。

 しかし信仰は大切にしています。

 

日本人は、過去宗教が起こした痛ましい事件や、近年でも問題になることの多い宗教について、ネガティブなイメージを持っている方が多いです。

 

しかし、実は不思議と信仰心は強い民族です。

 死者を冒涜するようなことは絶対しないし、正月にはちゃんと初詣に行きます。大事な局面にはお参りやお祓いにも行きます。

 

「俺は無宗教だ!」と口では言っていても、死んだペットをゴミ箱に捨てる人はいないでしょう。誰かが亡くなれば、しっかりお葬式もするし、お焼香もあげたりするわけです。

 

道端に、粗大ごみを置いておいたら問題になるのに、なぜか人型の石を置くと、供え物とかしたりします。無宗教と語る方も、この人型の石を蹴り上げるようなことは躊躇されるのではないでしょうか?

 

 つまり、信仰心は実は誰でもあります。
日本人はむしろ信仰心が強いのです。

 

そして、人は必ず何かを信じて生きています。

 

それがお金の人もいるかもしれません。
成功の人もいるかもしれません。
科学の人もいるのかもしれません。
誰か特定の人なのかもしれませんし、
特定の宗教なのかもしれません。

 

そういった中で、「ボクは聖書の神様を信じています」というだけです。

特におかしいことはないですよね?

 

ボクはキリスト教という団体や組織を信じているのではなく、イエス・キリストを信じているんです。

 

まずは宗教と信仰を切り分けて考える。

ここを一度擦り合わせ出来れば、誤解は少し収まるのではないかと思います。

 

カトリックなの? プロテスタントなの?

他にもよく聞かれる質問に、「あなたはカトリックなの? プロテスタントなの?」という質問もあるのですが、実は聞いている本人も、カトリックとプロテスタントの違いをほとんど理解していないことが多いです。

 

先ほどの話でいうと、この質問も、「どの団体に所属しているんですか?」というものですよね。

 

宗教=団体と捉えているので、出てくる質問です。

 

たぶんそこまで深い意味はなくて、
「違いとかよくわからないけど、なんか仲悪いんでしょ?」
みたいなことを確認したいのかなと思います。
争ってるんでしょ? 敵同士なんでしょ?
深層心理で、そう思っている方もいるのかもしれません。

 

ボクシングで言うと、WBCとWBAとあるんでしょ? アナタはどれなの?
みたいな質問と同じですよね。ボクも詳しくないので違いがわからないのですが…笑。

 

とにかく日本人にとってキリスト教がどういうものかよくわからないので、ひとまずわかる単語をぶつけてみた、くらいのことなのかもしれないですね。

 

なので、その質問にまっすぐ答えても、あまり意味がないように感じます。
「プロテスタントだよ」といっても「へぇ…、まぁ聞いても違いわからないけど」となるだけです。

 

なので、相手との関係性にもよりますが、ボクはこういう質問に対しては、「カトリックとプロテスタント以外にも、なんかいっぱい分かれているらしいよ。3万とか枝分かれしてるって聞いたことがある。凄いよね! でも、ボクはそういう団体にはあんまり興味もないし、そこまで詳しくもないんだよね。ボクはただ、聖書を信じているだけ。同じ聖書を信じてる筈なのに、派閥作っていがみ合うのは悲しいよね」とか、そんな風に答えています。

 

そうすると、「何でそんなに分かれてるの? 何が違うの? 何で争ってるの?」といった疑問が出ます。

 

真面目に歴史の観点から答えると1時間コースになってしまうので、ポイントはやはり、宗教=団体という思い込みを外すことだと思います。

 

「たぶん、聖書をちゃんと研究せず、勝手に解釈したり、自分で調べずに言われた通りに鵜呑みにしたり、聖書の記述よりも伝統の方が大切になっちゃったり、人によっては聖書を悪用したい人もいるだろうから、そうやってどんどん分裂していったんだろうね。そうやってちょっとした勘違いをもったまま次の世代に受け継がれて、その世代もまた勘違いして次の世代に…が続いて今に来ちゃったのかも…」と、そんな感じで答えます。

 

たしかに聖書は難しいです。分厚いですし。なので勘違いが生まれるのは仕方ないのかもしれません。しかし聖書が優れている点は、聖書の難しい部分は、聖書の他の部分が必ず説明をしているという点です。なので、しっかり聖書研究の原則を抑えていれば、誰でも真理にたどり着くことができます。

 

しかしほとんどの人はそれを面倒くさがってやりたがりません。なので、所属している団体の言うことをそのまま鵜呑みにしてしまいます。そうしていると少しずつ聖書の記述と団体の主張がズレてきて、結果団体同士で考え方に違いが生じてしまい、争いが生まれます。

 

「だからこそ、もう一度ちゃんと聖書に立ち返りたい」。真理に対する切なる想いを伝えられたらいいなと思います。

 

ちなみに教会に関しては、このように説明することが多いです。

「…ボクの通う教会が、ちゃんと聖書に立ち返ろう! という人たちが集まって出来た教会だから、あんまりそういう団体とか派閥で区分けて考えてないんだよね。ちなみに聖書では、教会の定義をどう決めているかというと、神様を愛する人が2人以上集まるなら、それを教会と呼ぶんだよね。団体とか、組織とかが教会ではないんだよ。例えばもしあなたがクリスチャンだとしたら、今ここが教会になるね」。

 

クリスチャンって、ほかの人と何が違うの?

この質問もよくある質問かと思います。
これは、一体何を聞きたい質問なのでしょうか?

 

恐らく、宗教=団体=独自のルール
みたいなイメージからくる質問なのではないかと思っています。 

言葉は違いますが、「やっちゃいけないことってあるの?」ということを聞きたいわけです。

 

宗教には厳しい規則がある筈、という思い込みがあるわけですね。

 

ボクはそういう時、結婚に例えて答えるようにしています。

「特に変わったルールとか規則っていうのはないけど、結婚に例えるのわかりやすいよ」。

そんな前置きをして、結婚でやっちゃいけないことを一緒に考えてみます。

不倫、仕事しないでダラダラする、ギャンブルにハマるなどなど…。

それは、結婚でやっちゃいけないルールなのでしょうか?
愛していたら、当然のこととしてやらないですよね? 

「結婚かぁ、不倫出来ないのかぁ…」。

とは、思わないわけです。

 

そんな感じで考えると、特にやってはいけないルールみたいなものはないですよね?

ただ、結婚相手を愛しているなら、
もっと健康でいようとか、
お酒は控えようとか、
あなただけを愛するよ、
というのは当然だと思います。

 

余談ですが、「キリスト教は自分以外の神様を認めないから嫌だ!」という方もたまにいます。

これも、結婚のたとえで話すとわかりやすいですよね。

ほかの女性を愛せないからあなたとの結婚は嫌だ! という人と、あなたは結婚出来ますか?
という話です。

 

こんな話をすると話が逸れていって、
「でも、結婚しても浮気をする人や、ギャンブルをやめられない人っているじゃない?」と言った話になったりもします。

 

それは本当の愛に出会っていないんだと思います。

 

本当の愛って、何でしょう?
人によって言う事もバラバラで、分かるようでわからない言葉です。

しかし聖書には、愛について、あまりに具体的に詳細に書いてあります。 

 

だからボクは聖書を信じるのです。

 

ボクは、人を憎んだり、人を騙したり、単にお金や名声を追いかける人生より、愛のある人生をおくりたい。愛のある人になりたいと思っていました。

それでたくさん努力しました。
でも、全くなれませんでした。

 

そこで聖書に出会いました。
聖書には愛について、その答えが全て書いてありました。

 

だから、ボクは聖書の神様を信じます。
神様は愛だということがわかったからです。

 

会話の中でのことですので、いつもうまく言えるわけではないですが、こんな風に“宗教=団体”ではなく、『自分が信じているのは神様であり、神様は愛である』ということが伝わると、とてもうれしいですよね。

 

聖書は非科学的?

聖書は科学的ではない、という決めつけも、非常に多い意見です。

 

結論から言えば、聖書と科学は全く矛盾しないのですが、これも、説明しようとすると1時間コース(それ以上かかるかも…)なので、短時間でどのように伝えるかは難しいですよね。

 

ちょっと前に、天動説と地動説についての漫画が流行りました。
『チ。-地球の運動について-』という漫画です。

 

ボクは読んでないので、内容がわからないのですが、たぶん科学が宗教に勝利した、と言う内容なのではないかと思います。(間違ってたらすいません。)

 

漫画を読んでいなくても、天動説、地動説の論争で、宗教が間違っていて、科学(ガリレオ)は正しかったのに、カトリック(キリスト教)に、不当な裁判にかけられた! といったイメージは、多くの方がもっているのではないでしょうか?

 

この話本当は、むしろ当時の科学が否定されて、聖書が正しかったと証明された話だというのは、ご存知でしょうか?

 

そもそも天動説は、聖書の真理ではありません。天動説は、2世紀のエジプトの天文学者プトレマイオスが導きだした、『当時権威のある科学』でした。

 

対して地動説を提唱したコペルニクスやガリレオ・ガリレイは、敬虔なクリスチャンでした。
そして地動説を発見した際、聖書に矛盾がないかを徹底的に調べ、聖書的な矛盾がなかったので、力強く地動説を発表したわけです。

 

しかし当時のカトリックという『組織・団体』は、天動説という当時の科学を信じ、利用していたので、ガリレオたちを迫害したわけです。

 

一般的なイメージとは、真逆なんですよね。

 

聖書がいかに科学的かは、別の記事でも少し触れていますし、そのことについて解説している動画もたくさんあるので、そちらを見て欲しいのですが、聖書と科学は矛盾しないということを伝える際は、シンプルにこんな風に答えています。

 

「ボクもそう思ってた! でも、聖書を読んで研究してみたら、聖書は科学的に全く矛盾してないんだよね!」

ただこれは、ボクがある程度科学的な説明ができる前提での一言ですので、科学が苦手な方が言うと、突っ込まれてあたふたしてしまうかもしれません。

わからないことは、論争にならないように、沈黙してもいいかもしれませんね。

 

ボクも科学者の知り合いに対しては、一切反論しないようにしています。その人の人生を否定してしまう可能性があるからです。

しかし、ボクが何も言わなくても、科学者の知り合いは、最終的に「ダーウィンの進化論には限界がある。(説明がつかないもの、矛盾が多すぎる…)」と、ご自身で結論づけることが多い気がします。

 

深い関係性がある人に対してであれば、聖書と科学について、一緒に学んでみるのも楽しいかもしれません。

感動しますよ!

 

聖書と科学についての記事はこちら

新米クリスチャン日記:第二十二回「天国を科学的に考察してみる」
新米クリスチャン日記:第二十四回「進化論の思い込み 3選」

聖書と科学についてのオススメ動画はコチラ

 

奇跡が信じられない

奇跡に対してアレルギーがある方もいます。奇跡をとにかく信じられないわけです。非科学的というより、現実味がないとか、現実逃避しているように感じるのかもしれません。

 

「聖書の教えはいいと思うけど、奇跡がなぁ…」とたまに言われます。

ボクもその気持ちはわかります。

 

先ほど話したように、ボクが勧誘を受けた宗教も、奇跡の話をたくさんされました。
しかしその人の品性が全く変わっていなかったので、当時のボクは「奇跡」と言われるほど、どんどん冷めていきました。

 

当時は、ボクも尖った部分があったので、「奇跡、奇跡っていうけど、あなたの言う〇〇を全く知らないボクが今まで生きてこれたのも奇跡なんですけど…」とか、「あなたの言う通り、あなたの言う〇〇は凄いのかもしれないけど、それを信じると、あなたのようにボクの気持ちを無視して、話も聞かずに一方的に押しつけるような人間になるってことがわかりました。あなたのようにはなりたくないので、あなたの言う〇〇は信じません」と、ど直球に答えたりしていました。

 

…完全に言いすぎですよね。いま会えるなら、謝りたいです。

 

しかし、クリスチャンとして今も思うのは、奇跡を信仰の軸にするのは危険だということです。ですので、こんな奇跡があるから神様を信じてる! みたいな話を聞いたら、今でもボクはちょっと引きます笑。

 

「結婚相手が特別な能力を持っているから、自分にとって凄くいいことをしてくれるから、だから結婚しているんです!」って言っているように聞こえます。

奇跡があってもなくても、神様を求めたいです。

 

先ほども述べたように、奇跡アレルギーの人は奇跡に縋って生きている人に対して、現実逃避しているように感じてしまうのだと思うのですが、聖書は奇跡に縋って生きなさいとは言っていません。
ただ、聖書には奇跡がたくさん描かれています。その点は当たり前だと思います。奇跡がなければ、偉い哲学者の伝記と何ら変わりはなくなってしまいます。

 

ですから、奇跡そのものを否定はしませんし、むしろ神様に出来ないことなどないと、心から思います。サタンも奇跡を起こせるので、奇跡を信仰の軸にはしない、というだけで、神様が奇跡を起こされることなんて、当たり前すぎるくらいに思っています。

 

イエス様が水の上を歩かれたことも、パンを割いて5000人を養ったことも、現実に起きたこととして信じています。

 

その証拠は?
と言われるかもしれませんが、その奇跡の証明などしなくても、もっと大きな証拠があります。

 

創世記1章を信じるかどうか?
これさえ信じるなら、ほかのどの奇跡も些細な奇跡となります。

 

例えば、大谷翔平選手がいますよね?
現在の大谷翔平選手が、小学生のリトルリーグに参加して、ホームランを打てると思いますか?

 

疑う余地もないですよね?
証拠は必要ですか?
やらなくてもわかりますよね?

 

それと同じです。
この世界を神様が作ったことを信じることが出来れば、ほかの奇跡は神様にとって、出来て当然です。

 

ただボクは、科学的に創世記の一章が正しいというのを調べたりしているので納得がいくのですか、一般的には創世記一章をそのまま信じるのは難しいかもしれません。

 

その場合、イエス様の復活なら証明できます。

 

当時の状況からも状況証拠はたくさんあります。
わかりやすくまとめてある動画があるのでリンクを貼っておきますね。

 

 

イエス様の復活についてはたくさんの状況証拠があるのですが、一番大きいのは、イエス様復活後の弟子たちの働きです。

 

皆さんは、嘘のために死ねますでしょうか?
嘘のために目を覆いたくなるような拷問に耐えられますでしょうか?
極稀に、強靭な精神力で耐えられる人がいるかもしれませんが、12人の弟子たちはヨハネ以外、みな残忍に殺されました。中には全ての皮を剥がされて亡くなった弟子もいました。
「みんなで口裏あわせて、イエス様が復活したことにしよう!」といって、12人のうち一体何人がその約束を守れるのでしょうか?

 

人は嘘のためには死ねません。しかし弟子たちは、胸を張って、真理のために死にました。

これ以上の根拠は必要ないのではないか? と思います。

 

なんかユダの福音書とか見つかったんでしょ?

これは上級編かもしれませんが、陰謀論などが好きな人から極稀に聞かれる質問です。
死海文書がどうとか、ほかにも色々その類はあると思います。現在の聖書には含まれていない新たな聖書が見つかった的な話ですね。

 

これに対しての回答は、非常にシンプルです。

「ボクは、聖書を信じているので、聖書に含まれない書物は信じてないよ」。

 

聖書を信じるということは、旧約、新約合わせて66巻を聖書として残された“神様の御力を信じる”、ということでもあります。

なので、聖書に含まれない書物が見つかったところで、それを神様が聖書として残されなかったわけですから、読むに値しないわけです。

もし、「発見された書物にも真理がある筈!」と思うのであれば、神様は真理を取りこぼして、聖書を不完全にしか残すことのできなかったお方ということになります。

 

神様に出来ないことはありません。

 

しっかりと御言葉に繋がっているクリスチャンなら、当然のことかと思うのですが、一般的には違いがわからないと思うので、少し噛み砕きながら、そんな風に説明します。

 

さて、うまくまとまっていないかもしれませんが、クリスチャンになって良く言われることと、その回答についてまとめてみました。

他にも、こんなこと聞かれたらどう答える? などあれば、コメントお願いします!

 

長々と、理屈っぽいボクの文章を読んでくださって、ありがとうございます。

 

現在Youtubeで聖書研究番組を作っていますので、是非そちらも観てみてください。
一緒に聖書の真理を研究しましょう!

 

リョウ☆プロフィール 

都内にて様々な仕事を経験。
聖書との出会いにより人生を見つめ直し全ての仕事を辞め田舎への移住を決断。 
2020年12月、ひとりでの信仰・聖書研究に限界を感じより真理を学びたいと、SOSTVの門を叩く。 
現在、SOSTVあきら牧師のもとで勉強中の新米クリスチャン。

 

リョウの聖書研究番組

 

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