新米クリスチャン日記:第六回「特別編:お父さんとボク」
こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。
SOSTVのHPに来ていただき、ありがとうございます。
このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、
クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを
気ままに書き綴っていくブログです。
今回は【特別編】ということで、
聖書とは関係ない話なのですが、
ボクとお父さんの思い出についてお話ししたいと思います。
このブログの第一回で、父についてたった一行だけ書いたのですが、
この一行に、どんな背景がつまっているのか
それを書ければと思います。
無理矢理聖書に繋げるようですが、
聖書も、たった一行の中に
今回のブログよりはるかに膨大な背景を見ることが出来ます。
この背景を瞑想した時に、更なる神様の愛に気がつくことがたくさんあります。
皆さまもそうやって、是非聖書を読んでみてくださいね。
さて、父親の話に戻ります。
ボクの父親は料理人でした。
ジャンルは問わず、なんでも作れる人でした。
大酒飲みで、子供の前でもタバコをぷかぷか吸って、父の部屋の壁はヤニで茶色くなってました。
休みの日は一日中お酒を飲んでテレビを見て、
そして、たまに暴れました。
母親が作った料理を、
「こんなもの食えるか!」
と壁に投げつけたり、
食事中に少しでも気に障ることがあると、
テーブルをひっくり返しました。
ボクの家は共働きで貧しかったので、
割と質素な食事が多かったのですが
父親のこういった行動があるので、
父親が家にいる時の食事は、
いつも鍋になりました。
特に父親の好きなしゃぶしゃぶが多かったです。
鍋なら父親が料理にケチをつけることはないし、
火を使っているのでテーブルをひっくり返さないからです。
なのでボクのイチバンの思い出の家庭料理と言えば
しゃぶしゃぶだったりします。
父は、子供たちに当たり散らすこともありました。
ボクには姉がいるのですが、
姉は可愛がられていたのか、怒られているのをあまり見たことがないのですが、
ボクはいつも怒鳴られました。
なので、たまに父親が早く帰ってくると(父は普段はいつも深夜に帰宅してました)
急いでおもちゃを片付けて、
背筋を伸ばして
父親の観たいテレビ番組を、「つまんないなー」とか思いながら、観ていました。
父はボクが泣くと、特に怒りました。
「男なのに泣くな!」
ということではなく
泣き声を聞くと
「うるせえ!!」
と言って殴りました。
頻繁に暴力があったわけではないですが、
思いっきりお腹を蹴られて、
息ができなくなって、おしっこを漏らしたりしていました。
なので今でもボクは、暴力を見ると
震えが止まらなくなってしまいます。
そうして姉もボクも成長し、思春期を迎えるころになると
父親が暴れることは少し減ってきました。
ボクも大きくなっていたので、
「実際に殴り合いになったらやばい!」
と思っていたのかもしれません。
思春期になると、
姉が父親を露骨に嫌うようになりました。
どの家庭もそうだと思うのですが、
ウチの場合は、より顕著でした。
ある日父親がお風呂から上がり、櫛で髪をとかしていたのですが、
その櫛が姉のものだったらしく
姉は怒ってその櫛をゴミ箱に捨てました。
それを見た父親は、烈火の如く怒り、
姉の部屋まで姉を追いかけて、
ボコボコに姉を蹴りました。
母親が止めに入って
それでも止まらないので、
「リョウ!助けて!」
と言われたのですが、
ボクも当時姉と喧嘩をして仲が悪かったので、
「ざまぁみろ」
と思って助けませんでした。
今になって、あの時助けてあげればよかったと深く悔い改めています。
そしてボクが遅れて姉の部屋にいくと
姉は泣きながら、母に介抱されていました。
父親は、自分の部屋で
姉よりもっと大きな声で、泣いていました。
後にも先にも、父親が泣いているのはこの時だけでした。
その後から、父は暴れなくなりました。
こうしてボクの家族は、
家族内で父も姉もボクも、母親としか話さない
いびつな家族になりました。
ボクは、父親が大嫌いでした。
そしてボクは21歳で結婚をし、家を出て
姉も独立していき
母と父は2人で暮らしていました。
たまに子供と実家に帰ると
父親が孫に好かれようと頑張るのですが、
何せ子供の扱いがわからないので
すぐ泣かしてしまい
「なんだよ」
と言っていじけて自分の部屋にこもってしまいました。
その後、ボクが奥さんとうまくいかず別居を始めた頃
父親が倒れました。
肝硬変で、余命3年を宣告されました。
仕事も続けられず、家にいることになりました。
ボクが奥さんと別れ、一度実家に引っ越してくると
父親は、家の料理当番になっていました。
ボクも当時料理人をやっていたので、
父の料理の腕がどれだけすごいのか、子供のときよりよくわかりました。
家の冷蔵庫を開けた時、本当に驚いたのを覚えています。
あんなに整理整頓された冷蔵庫は、
今に至るまで、一度も見たことはありませんでした。
少ない予算で買った食材を無駄にしないよう
キッチリ仕込んで、小分けして
痛まないようにわかりやすく古い方から使えるように
そして一回の食事で手軽にたくさんのおかずが食べられるように
一目でどこから何をどう使えばいいか、わかるように整理されていました。
その冷蔵庫を、見た時
何年経っても、料理では父親に敵わない
と思い知らされました。
その頃の父親は、
病気のため気が弱くなっていたのか、
「俺は子供たちに、何もしてやれなかった」
とよくこぼしていたそうです。
ボクは、父親を心底恨んでいたわけではありませんでした。
料理人として尊敬していましたし、
料理人がいかに大変な職業か知っていました。
帰ってくるのはいつも深夜で、休みの日はクタクタで寝てしまう。
そうなると、趣味はタバコとお酒しかなくなるのは
よく理解が出来ます。
ストレスが極限まで溜まっているのはよくわかりました。
父親は、「本当は夢があったけど、子供たちのために夢を諦めた」と話していたことがありました。
いつもいい加減なことばかり言う父親でしたから、
本当かどうか定かではないのですが、
父親の背中を見ていると、本当は違う仕事がしたかった
と言うのが、伝わってきていました。
それでも責任感を持って働いていました。
休日を返上して働いていました。
漫画を読むのも、テレビを観るのも料理のものが多かったですし、
家には料理の本がたくさんありました。
社会人になって、父親の生きてきた人生が
少しだけ見えるようになってきました。
それでもボクの心は、完全に父親を許していたわけではなく
ボクを見下して話すところ
ボクをバカだと思ってどうせ理解出来ないだろうと
何度も同じ話を強調して伝えてくるところ
いい加減で、嘘ばっかり話すところ
など、
うんざりすると思って、
無視していました。
それからボクは再度家を出て、一人暮らしを始め
仕事に打ち込み始めました。
そこで様々な経験をしました。
そして一人暮らしを始めてから数ヶ月後のこと
ボクは大阪で仕事の研修を受けている最中
改めて自己を振り返り、
ずっと心にわだかまりがあった父親のことを考えました。
本当は許したいのに、
許せない理由をたくさん見つけて、心のなかでいつも文句を言っている。
「もちろん感謝はしているけど、父は◯◯だから…」
と、心で批判を続けている自分。
ボクは自分に問いかけました。
「本当はどうしたいんだろう…」
その時、なぜそういった気持ちになったのか、あまりよく覚えてはいないのですが、
過去に囚われ
許してはいけないような気にさせられていたボクの心は、溶かされて
「うん、許そう」
と素直に思えました。
そうして心に決めた瞬間、
母親から電話がきました。
「お父さんが倒れた」
父親は、肝硬変とはいえ、
余命はまだ1年以上ありました。
家で会っても、病気と思えないくらい太って元気でした。
一瞬頭が真っ白になりましたが、すぐに母親に指示をしました。
姉は海外で暮らしていたので、
おじさんに母を頼みました。
そしてボクは次の日大阪で大切な仕事があるから
と、その日は帰りませんでした。
次の日仕事を急いで終わらせると、母親からまた、電話がありました。
「お父さん、死んじゃった…」
母は電話の向こうで、泣いていました。
あれだけ苦労をかけた父親の死に、母は涙していました。
時には子供たちから、
「あんなやつ、離婚しなよ!俺たちお母さんについていくから!」
と説得したりしたこともありました。
それでも母親は、
「そうだねぇ」と言うだけでした。
お父さんが友達の連帯保証人になって借金を背負ってきたり、
仕事を辞めてなかなか次の仕事に就かなくて家計が大変な時もありました。
代わりに母親が一生懸命働いて、倒れたこともあるほどでした。
それでも母親は、一度も父親の悪口を言いませんでした。
ボクは新幹線に飛び乗り、家に帰りました。
新幹線の中、
料理人として尊敬していること
子供の頃のことは全く恨んでいないこと
感謝していること
それら全てを伝えられなかったこと
様々な想いで、
涙が枯れるほど泣きました。
家に帰ると、昔父親だった体がありました。
おじさんが駆けつけてくれていて、
父の顔をボクに見せてくれました。
ボクは、直感で悟りました。
「あぁ、もうここに父はいないんだ」
遺体に話しかけても、何も意味がないし
父は天国や地獄に行っているわけでも、
まして魂が上からボクたちを見ているわけでもない。
ただ、父は、“もういなくなっただけ”なんだと
わかりました。
後に聖書を学び、人が死ぬと土のちりに帰り
意識も何もなく眠っているようなもので
世の中がいうように、霊になってそのあたりを浮いたり
三途の川を渡ったりはしないということを知った時、
「やっぱりそうだよな」
と思ったのを覚えています。
…
これが、
ボクとお父さんの思い出です。
父の最後に立ち会えなかったことに、
後悔は全くありません。
それより、
父が死んだから、許したのではなく
許してから、父が死んだ
というのが、ボクの中で大きいです。
神様も知らず、祈ってもいなかったけど、
神様がそっと、許しの経験を与えてくださったのだと
今は思っています。
最後に、
ボクの勝手な想像ですが、
父が倒れた日、
ボクが帰らなかったことに
父はほっとしていたんじゃないかと思います。
死ぬ直前の父は、
たくさん出血して、苦しんで、暴れて亡くなったそうです。
息子には、カッコ悪いところを見られなくない。
父はそういう風に考える人でした。
最後まで暴れて死んでいった父。
【人は生きてきたように死んでいく】
その言葉の通りの人生でした。
父は亡くなってしまい、もう機会を与えられることはありませんが、
父が神様に出会えていたら…。
と思うことがあります。
父は悲しい人でした。
報われない人生でした。
暴れるしかない人生でした。
そんな人がきっと世の中にはたくさんいます。
その人たちが、神様と出会って真実の愛を知り、
真の喜びと平安を得ることができることを
心よりお祈りします。
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リョウ☆プロフィール
都内にて様々な仕事を経験。
聖書との出会いにより人生を見つめ直し全ての仕事を辞め田舎への移住を決断。
2020年12月、ひとりでの信仰・聖書研究に限界を感じより真理を学びたいと、SOSTVの門を叩く。
現在、SOSTVあきら牧師のもとで勉強中の新米クリスチャン。
リョウがナビゲーターを努める番組
【聖書の疑問に聖書で答える:バイブルアンサー】