【祈る理由①】5分で聖書のポイントが分かるシリーズ
祈りは、ほとんどの宗教に存在します。
信仰をもっていなくても、スポーツ競技をする両チームが、
試合前に更衣室でそれぞれ祈る事があります。
こういう場合、神様はどちらのチームの祈りを聞いてくださるのでしょうか?
人類の歴史の中で、現代ほどたくさんお祈りをする時代はないようです。
しかし同時に、形式的で応答のない祈りがこんなにたくさん捧げられる時代も、過去にはなかったでしょう。
では、私たちが祈る理由は何でしょうか?
エペソ6:18に「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、
そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」 と教えられ、
テサロニケ人への第一手紙5:17には「絶えず祈りなさい」とあります。
祈りはクリスチャンにとってなくてはならない信仰生活の秘訣です。
今日は、この大事な問題を考えてみましょう。
私たちはなぜ祈るべきですか?皆さんはどうして祈るのですか?
私たちが必要なものを神様からいただくためでしょうか?
例えば、子供たちが父親に、食べ物や着る物を求めたり、寝るためにお願いをするでしょうか。
朝起きて子供たちがお父さんに、
「お父さん今日またこの家に泊まっていいですか? 今日、朝ご飯食べてもいいですか?」
と聞くでしょうか。
そんなことはしないと思います。
父親は子供たちの必要を当然の事として、
満たしてくれるからです。
天の父は実際の親より私たちの必要をもっとよく知っておられます。
それで人間の必要を満たしてくださるのです。
マタイ6:7、8には「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。
彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
だから、彼らのまねをするな。
あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」と語られています。
神様は私たちが祈っても祈らなくても、正しい人にも悪人にも同じように太陽と雨を与えられます。
イエス様を信じない人たちにも豊かな収穫があります。
どうしてでしょうか?
もし神様が、神様を信じている人だけ繁栄させて、信じない人には恩恵を与えなければ、
皆が信じるようになるかもしれません。
しかしそうすると、信仰の動機が利己的なものになるはずです。
誤った動機で神様を信じるようになるでしょう。
神様を利用することになりかねません。
では、私たちは何故、祈るのでしょうか?
祈る第一の理由は、神様を愛しているからです。
会話のない愛というのはありません。
もし、問題が起きた時や必要な時だけ祈るのでは、神様との関係に何か、問題があるかもしれません。
皆さんの知り合いで、普段全く付き合いがないのに、
お金や助けが必要な時だけ連絡してくる人がいたら、そういう人は少し利己的に感じませんか?
ところが、私達も助けが必要な時だけ、お祈りしている事はないでしょうか?
本来の祈りとは、友達のように神様と対話することです。
こちらの考えや願いを述べる事以上に、神様の御心を求める気持ちが大切です。
そして、それは、クリスチャンの生命線です。
「なぜ祈るのか?」という質問は、実は「なぜ息をしているのか?」という質問と同じことなのです。
幼い子が母親の所へ走っていくのは母親だからです。
そこには理屈はありません。
母親の所に問題解決があり、涙を拭き抱きしめてくれる愛があるから行くのです。
母を愛しているので、母親になんでも話したいのです。
なぜ私たちは祈るのでしょうか?
子供が親に抱かれるように、私たちの魂が神様のみ旨に抱かれて対話するのです。
神様と交わるのです。
私たちクリスチャンは祈りがなくては生きられません。
祈りは、クリスチャン生活の喜びであり、特権です。
神様は、私達と対話することを望まれています。
365日、24時間、いつでもその目は私達に注がれ、
私達の言葉にもならないような声を聞こうと待っておられます。
そのような招きに今日から応えて、もっと祈ってみませんか?