【信頼】5分で聖書のポイントが分かるシリーズ
私たちは誰かを、いや何かを必ず信頼しながら生きているといえるのではないでしょうか?
誰でもある種の信仰、若しくは信頼を持っていると言えるのです。
信頼なしでは車の運転もできませんし、買い物で品物や食べ物も買えないでしょう。
信頼感なしでは電車や飛行機も乗れないのではないでしょうか?
しかし、そんな日常的な信頼、信仰からもっと進んで考えてみると、
人間は自分をもっと良くしてくれるような、ある存在を信じて生きているのではないでしょうか。
自分をより高めてくれる存在をだれもが、なんとなく信じています。
本当に困ったとき、口から神様!と叫んだりします。
また、普段、神様を信じていない人でも、
正月は神社にいって、願いごとをしたり、何の意識もない木や石を拝んで、
お祈りを捧げたりする事もあります。
もちろん、その理由は私たちの人生があまりにも不安定で不確実なことを知っているからです。
そのために人々はいつも恐怖の中で生きています。
死の恐れ、あるいは病気と苦痛に対する恐怖、寂しさや悲しみに対する恐れ、
特に未来に対する不安をもって生きています。
それで多くの人は自分たちが拝む神々がこのような恐怖心から解放してくれることを
期待して信じるのです。
ところが、多くのクリスチャンも同じような動機をもっているかもしれません。
天国に行くため神様を信じたり、
恐ろしい審判や地獄から逃れるために信じていませんか?
お金をたくさん稼げるようにと、ご利益的なことのみ祈っていませんか?
また、子どもたちのこの世的な成功だけを求めていませんか?
そのような、信仰をこの世の祝福をたくさん受ける手段のように教える教会は、
とても人気です。
皆さんはどのような理由と動機で、なぜ神様を信じているのでしょうか?
聖書はイエス様がなぜこの世に来られたかについて次のように述べています。
「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、
ヘブル人への手紙 2章 14節・15節
イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。
それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。
つまり、神様は私たちを恐怖から解放するために、この地に来られたのです。
私たちは、恐怖心から解放されていなければ、本当の信仰を理解していないのです。
この恐怖、恐れから解放されていないと、間違った信仰経験を積んでいくことになってしまいます。
信仰とは信頼することです。
信仰はただあるものを理解して同意し、あるものを通して信頼することです。
幼い子供は、母親をそのまま信じます。
幼い子供が母親を信じるその信頼心は、お母さんが子供に与えるプレゼントです。
子供がお母さんからたくさんの愛を受けた後に生じる自然な行動が、まさに信頼ではないでしょうか? それが信仰ですね。
お母さんが優しくするから自然に信じるようになるのです。
神様がどんな方かよく分かった時、自然にその方を信頼するようになります。
その方のみ言葉を信頼するようになります。
それが信仰です。
困難が起きても、神様は私にとって最善をしてくださると信頼することです。
ところで皆さん、私たちがある人を信頼するためには、どうすればいいでしょうか?
その人と長く付き合う必要があります。
その人と一緒に過ごす時間をできるだけたくさんとるべきです。
時間を一緒に過ごしながら長く付き合っていくうちに、自然にお互い信頼するようになるでしょう。
私たちも神様を信頼するために、神様と一緒の時間を過ごして付き合わなければならないのです。
長く付き合うことによって神様を分かるようになります。
神様を分かったら、私たちは神様を信じるようになって神様を信頼するようになります。
ですからただ教えだけ受け入れて、実際的に神様との交わりがないならば、
信じているとは言いにくいのです。
私たちが神様を信頼することが信仰です。
皆さんは神様をどれだけ知っていますか?
私達の全ての艱難や苦難から守って下さり、導いてくださり、
また私たちが苦しみに合う時にも、最善の道へと導いてくださるその神様を信頼していますか?
皆さん、神様を本当に信じていますか?
信じることは信頼関係です。
神様を深く知り、主を悟るために、
もっと神様と一緒にいる時間を過ごしていただきたいと思います。