【天を目指す教会】5分で聖書のポイントが分かるシリーズ
皆さんは、イエス様の再臨の足音を感じられますか?
災害のなかに、日々とびこんでくる恐ろしいニュースのなかに、それを感じられるのでは、ないでしょうか?
しかし、再臨が近いと考えることと、実際に備えていることは、別の問題です。
賢い乙女と愚かな乙女のたとえ話を理解し、説明できることと、実際に、賢い乙女として、イエス様を待っていることは、全く別の問題です。
私達のランプには、予備の油が入っているでしょうか?
油、それは、イエス様との聖霊様との個人的な強い信頼関係です。
強い信頼関係は、それが試される時に、強くなります。
今日の、悲しい出来事、試練、そういった出来事のなかで、どのように選択をするかが、将来の選択につながります。
本当に危機的な状況になった時に、表れるのは、今、どのような関係を築いているかなのです。
イエス様の愛を疑わない信仰は、今、この時に築いていく必要があるのです。
例えのなかの乙女は、どうして、寝てしまったのでしょうか?
人が寝る事ができるのは、安心できる時です。
真理に出会い、本当の教会に出会い、そして、安心してしまう危険があるのです。
それが、眠りの原因です。
イエス様を待つことに慣れてしまうのです。
それが、習慣となります。
ですから、イエス様は、このように言われます。
これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。
ルカによる福音書 21:28
あなたがたの救が近づいているのだから」。
来週の安息日にイエス様が、再臨されるとしたら、皆さんは、霊的に眠らないでしょう。
もし、明日から聖書を読むことができなくなるとしたら、今日、どれだけ必死に学ぶでしょうか?
あと、一週間でイエス様がこられるのに、人のことをあれこれいったり、
自分のプライドが云々、そんなことを考えるでしょうか?
罪を犯すことの言い訳をやめてください。
そして、毎安息日事に、その安息日を再臨だと思って、準備していただきたいのです。
安息日は、主に会うために集うのです。
どうして、ふさわしくない心で、主に会う事ができるでしょうか?
イエス様が、一週間後にこられるとしたら、罪を犯すことができるでしょうか?
イエス様と共に歩みながら、罪を犯すことができるでしょうか?
罪のために、死んでくださったその方を目前に、どうして、また、罪を犯すことができるでしょうか?
再臨を信じているなら、
家族の救い、友人の救い、そして、自分が神様と正しい関係にあるのか、それが何よりの関心事では、ないでしょうか?
私達の心は、イエス様だけで、十分でしょうか?
イエス様さえ、いてくだされば、それで十分でしょうか?
イエス様に対して、浮気をしないでください。
他のなにものも頼らないでください。
ただ、信頼するのは、イエス様だけです。
信仰とは、ただイエス様だけを信頼することです。
イエス様が状況をよくしてくださることを信じるのではありません。
最悪の状況でも、イエス様がいてくださることを望むことです。
私が感じる最善を与えて下さることを信じるのではなく
イエス様が最善の方であることを信じるのです。
お金を信頼しないでください。
肩書があるからといって、人の言葉を信じないでください。
イエス様とイエス様の約束、神様のみことばにだけ、すがってください。
イエス様が共にいてくだされば、それで、十分だという信仰をもっていただきたいのです。
どうして、殉教者たちは、殉教を前にして、賛美をしたのでしょうか?
イエス様が全てだったからです。
社会から見放され、友人に裏切られ、着る服もなく、鞭うたれて、それでも、使徒達は賛美をしました。
かつて、聞かれた最も美しい賛美は、牢獄のなか、死を目前に歌われた、キリストの弟子達の賛美でした。
真の礼拝は、建物でも、人々でもなく、私達の心に、イエス様が内在することです。
それは、イエス様より大切なものがないもない事です。
イエス様をえることができれば、全てを損と思える心です。
その心がなければ、何もないのです。
そして、その心は、義務感ではなく、愛ゆえに、イエス様の言葉を守ります。
イエス様の言葉を守らない、全ての愛は、偽物です。
イエス様を愛していると言いながら、そのイエス様の言葉を軽視することは、
イエス様を軽視している事です。
だから、終りの時代には、愛が冷えると言われているのです。
何によって、愛が冷えるのですか?
何によって、愛が偽物になるのですか?
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
マタイによる福音書 24:12
とあります。
神様の戒めを破る、不法によって、愛がひえるのです。
残りの民の特徴は、何ですか?
龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、
ヨハネの黙示録 12:17
すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、
戦いをいどむために、出て行った。………
残りの民の特徴は、イエス様の証を持ち、神様の戒めを守る人です。
神様の戒めを守るのは、決して、救われるためではありません。
救われたからです。
救いとは、天国に行くことだけではありません。
この地上で、天国の原則、つまりイエス様のみ言葉の支配のもとで生きる事です。
肉の思いではなく、イエス様の心を心としていることが、救いなのです。
それを実現してくださる方が、救い主、イエス・キリストです。
本当に、真心から、そのような心を求めて、祈り、悔い改め、赦され、
そして、新しい命をいただいて、神様の御心を行うことのみが、喜びとなる心
その心をたずさえて、主を礼拝したいと思います。
私達の教会が、天を目指す教会となるように願い、祈っています。