【神様の愛を知った放蕩息子】5分で聖書のポイントが分かるシリーズ
イエス様が語られたたとえ話のなかで、神様の愛を最もよく表しているのは、
放蕩息子のたとえ話です。
あるところに二人の息子がいました。
弟は、父親の傍では束縛され、自由がないと考えました。
それで、父親がまだ生きているうちに、遺産の分け前をもらって出て行ったのです。
父親が生きているうちに遺産をもらうというのは、
事実上、父親と絶縁して、父親を死んだものとみなすというとんでもない親不孝な事です。
何故、彼はそのような事をしたのでしょうか?
彼は、今が楽しければそれで良いと考えたのです。
将来や未来の事ではなく、
現世的な事に喜びを探したからです。
意気揚々と家を出た息子ですが、放蕩な生活のなかで全財産を使い果たし、
ユダヤ人文化の中では、嫌われていた豚を飼う仕事をします。
財産を失う事で、友人を失い、プライドもなにもかもなくなり、
彼が得たと思っていたものは、すべて幻のようなものだった事に気が付きます。
そんな放蕩息子でしたが、そのような苦境のなかで、父の事を思い出します。
父の愛を思い出したのです。
神様の愛について、聖書はこう言っています。
主は遠くから彼に現れた。 わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
エレミヤ書 31:3
それゆえ、わたしは絶えずあなたに 真実をつくしてきた。
すべてを失った放蕩息子でしたが、彼は、自分の現状やみじめさを見続けず、
父の事を思い出しました。
そして、父のもとに帰ることを決意します。も
う、息子と呼ばれなくても、せめて、召使いとして、雇ってもらおうと考えました。
ぼろぼろになり、やつれ、見る影もない放蕩息子が父の家に近づいた時、
彼をすぐに認め、走り寄るひとがいました。
それが、彼の父です。
父親は、どんなに変わり果てた息子であっても、必ず見分けることができるからです。
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
ルカによる福音書 15:21-24
もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきて
この子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。
それから祝宴がはじまった。
息子に過去の行いに対する非難の言葉は、聞かれません。
息子が父に、自分を召使にして欲しいと頼む暇もなく、
父親は、むすこが死んでいたのに生き返った喜びを爆発させます。
私達の神様は、私達を快く赦して下さる方です。
わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、 あなたの罪を霧のように消した。
イザヤ書 44:21-22
わたしに立ち返れ、 わたしはあなたをあがなったから。
ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。 あなたはわがしもべだから。
わたしはあなたを造った、 あなたはわがしもべだ。
イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。
今まで、神様を信じていたかどうか、今、教会に通っているかどうか、
現状の状況がどうであれ、神様は、私達を造ったと言われます。
その神様は、私達を決して忘れることは、ありません。
ですから、もし、今、神様から離れている自分に気が付いたなら、
そのままの姿でイエス様の所へ帰る必要があります。
わたしに立ち返れ、 わたしはあなたをあがなったから。 イザヤ44:22
どんな小さな悔い改めの涙も、神様は見逃されることがありません。
どんな小さな告白の声も、必ず聞いて下さる方です。
私達が悔い改めて、一歩、神様のもとへ踏み出すなら、
神様は、私達のところへ、走り寄り、愛の腕に私達を抱きかかえてくださるのです。
神様の愛の御声がこう私達に叫んでいます。
わたしに立ち返れ、 わたしはあなたをあがなったから。 イザヤ44:22