【天国のたとえ―麦と毒麦―】5分で聖書のポイントが分かるシリーズ
イエス様は、天国の事を多く語られました。
マタイによる福音書には、
イエス様がされた、弟子達に天国の原則を教えるための 、多くのたとえ話がでてきます。
今日は、麦と毒麦の例えを見てみましょう。
また、ほかの譬を彼らに示して言われた、
「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。
芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。
僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、
良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。
すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
収穫まで、両方とも育つままにしておけ。
マタイによる福音書 13:24-30
収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、
麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
この例えの教えは、何を表しているのでしょうか?
まず、神様に敵対する敵の働きがあることを教えています。
神様は、この世界をはなはだ良く作られたのに、どうして、悲しみや苦しみがあるのでしょうか?
それは、敵のしわざ、つまりサタンの働きです。
私達は、サタンのしわざをまるで、
神様の責任であるかのように考えないようにしなくてはいけません。
そして、悲しい事ですが、教会のなかにおいて、心から神様に従う麦と、外見は同じようにみえるが、
実際には毒をもっている毒麦が混在するというのです。
私達は、教会の中に聖なる民だけがいると思いがちですが、そうではありません。
そして、そうであるならば、私達は、
この人は麦、この人は毒麦といった判断をしてはいけないという事です。
それは、主が世の終わりの時になさることで、私達の仕事ではありません。
私達は、外見しか見ることができませんから、決して人の品性や動機まで裁くことはできないのです。
人々から尊敬され、愛され、この人こそ、クリスチャンだと思われていた人が、
実は、毒麦である可能性もあります。
また、人々からは、軽く見られ、なんであんな人が教会にいるのか分からないと思われていた人が、
変えられてイエス様の品性の実を結ぶ人になることもあるのです。
私達には、人を裁く権利がありません。
それをお持ちの方は、主のみですから、
それを横領して裁きの座に座ることがないようにする必要があります。
また、この例えでは、かならず主が、私達の実によって、裁かれる日があることを教えています。
福音の招待は、すべての人に発せられていますが、救われる人は、
その招待に答え、心の中に新しい天国の原則を受け入れた人、礼服を着ている人です。
その事があまりに重要なので、イエス様は例えをとおして、何度もその事を語られました。
このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、
マタイによる福音書 7:20,21
ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
自分は、よい麦だと思っていたのに、
最後に自分が毒麦だったことに気がつくのでは、遅すぎます。
それ以上の悲劇はありません。
そうならないように、しなくてはいけません。
聖書は、主の名の呼ぶ事をこのように言っています。
しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。
テモテへの第二の手紙 2:19
「主は自分の者たちを知る」。
また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。
私達は、教会や人の心から毒麦を抜くことはできませんが、
私達の心にある毒麦は、すぐに悔い改め、根こそぎ抜く必要があります。
決して、それを育ててはいけないのです。