【敬虔の力】5分で聖書のポイントが分かるシリーズ
エジプトの国を追われたモーセに神様があらわれます。
ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。
出エジプト記 3:2‐6
彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。
モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。
主は彼がきて見定ようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、
「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
神は言われた、「ここに近づいてはいけない。
足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。
また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。
神様がおられる場所は、それは神聖な場所です。燃えるしばは、神様の栄光を象徴していました。
それで、そのような場所では、くつを脱ぐにように言われ、モーセは、顔を隠します。
神様は、憐みと慈しみに満ちた方ですが、同時に崇拝を受けられる唯一の方です。
そのような神様を意識して生きることが、敬虔です。
神様は、その御名をみだりに唱えないように戒められました。それは、聖なるものだからです。
私達は、神様が聖とされたものに触れないようにしなくてはいけません。
三日目までに備えさせなさい。三日目に主が、すべての民の目の前で、シナイ山に下るからである。
12 あなたは民のために、周囲に境を設けて言いなさい、『あなたがたは注意して、山に上らず、また、その境界に触れないようにしなさい。山に触れる者は必ず殺されるであろう。
出エジプト記 19:11-12
私達が主に会うために集まる時、その場所と時間を神聖なものとする必要があります。
罪のないセラピムが神様を賛美するときの様子がこのように書かれています。
ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、
イザヤ書 6:1-3
その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。
その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、
互に呼びかわして言った。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
罪のない天使が神様を賛美する時、その顔と足を翼で覆うのです。
私達が、神様のまえにはべる時、どのような心でしょうか?
敬虔とは、常に神様の偉大さを意識している事です。
その偉大な神様の言葉を何よりも、尊重する事です。
もし、私達が外国の大統領に面会するとすれば、どのような心で準備するでしょうか?
どのような態度をとるでしょうか?
どのような服装をするでしょうか?
行動にも、言葉にも尊敬を込めて接するのではないでしょうか?
心も行動も、主の前に膝まづく必要があります。
私達が主に自分の思いではなく、
主の御心をなしてくださいと祈るとき、その生活がイエス様の生活に似てくるのです。
毎日の生活のなかに、キリストの教えが再現されることが敬虔であり、
その敬虔の力が人々を動かすのです。
議論や論争ではなく、敬虔の力が必要とされています。
しかし、主の日は盗人のように襲って来る。
ペテロの第二の手紙 3:10-14
その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、
地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、
神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。
その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。
愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、
しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。