【信仰と感情】5分で聖書のポイントが分かるシリーズ
クリスチャンの信仰生活において、しばしば混乱を与えている問題の一つが信仰と感情の関係です。
神様と真理を発見して信仰生活を始めたクリスチャンは、どのくらい感情的な高まりを経験しなければならないでしょうか。
気持ちが高揚したり、恍惚感を経験することがよい信仰の証拠でしょうか。
神様のみ言葉を信じて真理に従う歩みの中で、感情というのは私たちの信仰生活にとってどのような意味を持つのでしょうか。
また、聖霊を受けたことと感情とはどのような関係があるでしょうか。
心が熱くなったり、うっとりしたり、ある時は、張り裂けそうな感情が湧きあがることを聖霊を受けた証拠だと人々は思っています。
しかし、このように胸が熱くなる感情が湧きあがってきた経験を、聖霊を受けた証拠だと思うのは危険なことです。
心が熱く燃えるような経験をしたので、その人は深い霊的な信仰を持っていると考えるのは危険な事なのです。
皆さんがTVで連続ドラマを見ながら、感動して泣くことがありますね。また、笑ったりもしますね?
それならそれも聖霊の感化で感動でしょうか?
違いますね?
信仰は感情ではなく、神様のみ言葉を悟るようになる、その経験が深まることです。
それでローマ人への手紙10:17には
「信仰は聞くことによるのであり、聞くことは・・・何から来ますか?」
「キリストの言葉から来るのである」とあるのです。
このことは私たちが理解しなければならない、とても重要な問題の一つです。
信仰とは、真理を学び続け、神様の恵みと聖霊の感動の中で、新生の経験を継続していくことです。
神様のみ言葉を理解することよりも、心に感情的な興奮が起きることを強く求めることは非常に危険であり、そのようなことが多くのキリスト教会に混乱を与えているのです。
皆さんが、そうした感情的な高揚感が起きなければ、信仰がなくなったと考えるならば、
それは間違ったことです。
私たちが病気の時には心が痛みや悲しみでいっぱいになります。
また、さびしいときには泣くことがあるかもしれません。病気の時につらくなる、さびしいときに泣く、それも聖霊の感動でしょうか?
そうではないと思います。
まあ、そういうこともあるかも知れませんが、そうではない場合がほとんどなのです。
皆さん、私たちの信仰を感情と感覚で測ってはなりません。
それで聖書のコリントへの第2の手紙5:7にこうあります。
「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである」。
コリント人への第2の手紙 5章7節
私たちは、自分が見たり感じたりしたことに信頼して生きるのではなく、神様の御言葉の約束によって生きることが信仰なのです。
信仰は、私たちがどのように感じているかに関係ありません。そうではなく私たちが聖書の言葉にどれだけ信頼しているかが大切なのです。
皆さん、神様は私たちに、聖書がこれ以上いらなくなるような経験を与えられることはありません。
聖書は聖霊によって書かれたものですから、聖霊は聖書自体と矛盾することを私たちに与えられないのです。
聖書によって本当に聖霊か偽りの霊なのかを見分けなければなりません。
私たちはもう一度慎重に考えてみるべきです。
今私たちの信仰生活に、どれくらい感情の要素が入らなければならないのでしょうか?
私たちは信仰があるとき、私たちは感情を持つ存在なので、
心に感動が生じて、鼻がジーンとして、泣きもします。
しかし、そのような感動だけが信仰だと思ってはいけません。
聖霊は私たちの感情に働かれます。
しかし、覚えてください。
信仰は主の御言葉と御約束に頼って生きるものなのです。