【真理VS誤謬】④ サタンが教会で奇跡を行う理由

真理VS誤謬
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サタンが教会で奇跡を行う理由

聖書に教えられている、終末時代の特徴の中で、最も明白なことの一つは、サタンが、善と悪の最終の戦いに備えて、全ての人を自分の旗のもとに結集させるために、その力を総動員して、奇跡を行うことです(黙示録13章:13など)。

聖書は、最終時代に、サタンが全人類を自分の陣営に引き入れるために、ありとあらゆる欺瞞的作戦を繰り広げると預言しています。

使徒ヨハネは、「それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、お前たちのところに下ってきたからである」

(黙示録12:12)。

地球の全歴史を通して、サタンは、いわば、この最後の戦いのために準備してきたのです。そのために、サタンは、人間を動かすのに最も影響力のある、政治の力、宗教の力をすべて利用します。堕落する以前には、天使の長であったサタンは、その知力を尽くして、人が神様を信じないようにさせ、キリストの救いの力を経験できないように仕向けます。人が、永遠の生命を受け、天国で喜ぶことができないように、サタンは、ある人には不幸や苦しみを与えて神様を信じないようにさせ、ある人には奇跡を起こして、神様以外の力を信じるようにさせます。

そして、サタンが、アダムとエバの時から最終時代にいたるまで、人々を欺く一つの方法は、神様の戒めを犯させることでした。人々が天国へ入れないようにするためには、神様の命令を無視し、それに従わないようにさせれば良いからです。アダムは、神様の一つの命令に従わないことによって、エデンの園から追放されることになりました。

サタンの、全人類に対する欺瞞の中心は、神様の権威に対する不服従へと導くことであり、天地万物を創造された神様の、愛の支配を疑い、その愛の戒めに従わないようにさせることです。そこで、この目的を遂げるために、サタンは、現在、二つの方法を用いています。それは、第一に、すべての教派に属しているクリスチャンたちが、神様の律法を犯しているにもかかわらず、それについて何の良心の咎めも感じないようにさせることです。第二番目は、神様の律法に従っていないにもかかわらず、いろいろな奇跡や、不思議な業を行う事によって、神様が自分たちと共にいて下さるという、感情的な強い確信をもたらすことです。

しかしキリストは、次のように警告しておられます。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言うものが、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」

(マタイ7:21~23)。

主が与えて下さった、この警告の意味をよく吟味してみましょう。この聖句に登場する人たちは、クリスチャンであると自任していました。その上、預言し、病気を癒し、悪霊どもを追い出すという、とてつもない能力を持っていました。ところが、イエス様は彼らを「知らない」と言われました。それゆえ彼らは、キリストの力によって、それらの奇跡的な業を行っていたのではありません。それでは、だれが彼らに、このような超自然的な力を与えて奇跡を行わせたのでしょうか?そのような力の根源は、神様かサタン以外にはありません。イエス様が彼らに「不法を行う者」と言われたことを見ると、彼らが行った奇跡は、不法の創始者であるサタンの力によるものであることは、間違いありません。

このみ言葉は、最終時代に、神様の聖霊の賜物を受けたかのように装う、欺瞞的な奇跡を行う者が現れることを、私たちに教えています。外面的には、それらはまさに、本物の神様の賜物のように見えるかもしれません。そして、信仰的な熱心さに溢れた雰囲気の中で、イエス様の名を名乗って行われるかも知れません。しかしそれらは、イエス様とは無関係なものなのです。

イエス様は、

「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」

(ヨハネ16:13)

と言われました。ここで、御霊が私たちを導かれる「あらゆる真理、または、きたるべき事」とは、まず、罪を指摘される聖霊のみ業から始まります。「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ16:8)。どんな人であれ、自分が律法を犯したことに対して、聖霊の叱責を受け、十字架による赦しと、聖化の経験を持たないならば、真の聖霊の満たしを経験することはありえません。偽り、盗み、姦淫・・・などを行いながら、聖霊の充満を望むのであれば、それは、神様を信じる信仰というより、汚れた要求と言えるものでしょう。

「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」

(マタイ12:31、32)。

使徒行伝の記者ルカは、聖霊にあずかる原則について明白に宣言しています。「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」(使徒行伝5:32)。神様は、真理のみ言葉を受け止め、それに従って歩む人に聖霊を注いで下さいます。

これらの聖書箇所を通して、私たちは、なぜ、奇跡を行っていた者たちを、イエス様が、「不法を働く者」と、排斥されたのかが分かります。彼らは天の能力を要求していたのですが、天の父のみ心である律法を拒む生涯を送っていたために、聖霊の力を受けることができず、サタンの偽りの力を受けていたのです。

聖霊の賜物を求める前に、まず、聖霊の九つの実である、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠誠、柔和,自制」(ガラテヤ5:22、23)が、自分自身の品性と生涯の中に豊かに実っているかどうかを、考えてみましょう。聖霊の実が豊かに結んでいないクリスチャンに、御霊の力が注がれることはなく、それはサタンの欺きに過ぎない事を覚えておく必要があります。神様の真理を故意に否定したり、拒む人々に、聖霊の賜物が注がれることはありません。もし、神様の言葉を拒絶するような人々にも、聖霊の賜物が与えられるとすれば、どんな人でも、求めるなら聖霊の賜物や力を受けられる事になります。聖霊の賜物と力が、心が清められておらず、利己的な、自分に栄光を帰するような性質が残っている人に注がれることはありません。

ある教会では、異言の賜物が強調され、異言を語ることが、信仰を持ったことのしるしになっていることがあります。しかし異言が、ただ、信仰的な満足感や、陶酔感を与えるために下ることがあるのでしょうか?そもそも、日本人が日本人に対して説教するのに、異言が用いられる理由はどこにあるでしょうか?異言を語る人自身が、何を話しているのか分からず、聞く者も理解できない状態で、果たして、聖書の真理が正しく伝わるでしょうか。そのようなことはありません。

あなたは、神様の奇跡を願うほどに、天のお父様の真理を大事なものとして考えているでしょうか?あなたは、イエス様を愛するだけではなく、イエス様の戒めを愛し、それに服従しているでしょうか?もし、あなたの信仰生活の歩みが、神様の言葉と一致していないなら、あなた自身の奇跡的な経験さえも否認できるほど、聖書の言葉の権威に従うことができるでしょうか?

聖書を見れば、異言は、現代のキリスト教会においても、福音を宣べ伝える働きにおいて、必要な聖霊の賜物です(1コリント12:10;14:5)。しかし、あなたが異言の賜物を受けたと感じるならば、その賜物ばかり主張する前に、祈りと聖書研究を通して、その賜物の真実性を、まず、確認しなければなりません。偽預言者と、真の預言者がいるように、偽の異言と、真の異言があって、その真実性は聖書のことばによって判断されるべきです。

問:聖霊を受けた瞬間は理性を失い、倒れたり転がるようになるのでしょうか?

答:私たちは、聖霊が人に臨まれる時、どのようになるのか、はっきりと知らなければなりません。“霊に触れた者は、地面へ転がりながら、異言を唱えるべきだ”というような考えや現象は、神様の霊を侮辱することにほかなりません。神様が、ご自身の聖霊を私たちに下さる目的は、神様の清いみ姿を回復なさるためであって、人間の尊厳をなくして床を転げ回ったり、自制心や理性をなくして、奇異な行動をとらせるためではありません。

旧約時代、カルメル山で、バアルの預言者たちは、祭壇の周囲を飛び跳ねながら、うめき声をあげたり、叫び声をあげました。彼らは自分たちの体を傷つけ血を流しながら、自分たちの神に祈りました(列王記上18章)。しかしこれと反対に、エリヤは、静かにひざまずき、厳粛に祈りました。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神である」(1コリント14:33)。私たちが聖霊を受ける時、理性をなくし、自分自身を制御できなくなるというのは、聖書と不釣り合いな思想です。「かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである」(1コリント14:32)。 また、イエス様が、ガリラヤの対岸、ゲラサ人の地で、悪霊につかれていた人を癒された時、「悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた」(ルカ8:35)。

天のお父様は、「さあ、われわれは互に論じよう」(イザヤ1:18)と、私たちに理性を働かせるよう招かれる方です。

この文を読まれるクリスチャンの皆さんは、「なぜ、あなたはそういうことを言うのですか?私は長年のあいだ、異言を唱えて来たし、これが神様から来たものであると確信しているのですよ」、と反論するに違いないと思います。しかし、クリスチャンとして、私たちは自分の経験を、そのような思いや感情によって判断してはなりません。なぜなら、サタンは私たちの感情と感覚を通して接近してくるからです。私たちの信仰は、明白な神様のみ言葉に、その基礎を置かなければなりません。

しばしば異言を唱えていた、熱心なペンテコステ派の教会員であった私の友人は、異言についての聖書の勉強を終えた後、「異言は本当に正しい霊から来たものなのかどうか、再び考えさせられた」と言いました。そして彼は、真実な心で「主よ、もし、私が真の異言の賜物を受けたのでないならば、これを私から取り除いてください。主のみ心が行われますように」と祈りました。彼の話によると、その時から、忘我の状態で異言を唱えることは、彼自身が望まなくなり、異言は止んで行ったという事でした。

真のクリスチャンであるならば、自分自身が大事にしているあらゆる考えと行動について、すべてを神様の祭壇の上に置き、また、放棄することができなければなりません。それが、自分にとって都合がいいからとか、人に人気があるとか、多くの人が認めるからという事に関係なく、真理に一致しないものはすべて捨てなければなりません。

「そこで彼らにむかって言われた、『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌きらわれる」

(ルカ16:15)

このイエス様の言葉に立つものが、真のクリスチャンなのです。

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