【おやすみ前の聖書】06_祈れない時に

お休み前の聖書
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【おやすみ前の聖書】06_祈れない時に       2020.03.19

【おやすみ前の聖書】06_祈れない時に

皆さん、こんばんは。

今、私達のスタッフは、コロナウィルスの影響もあって、皆、自宅で仕事をしています。

そんな中、義兄の家に、ソン先生の説教のデーターをもらいに行きました。実は、義兄の家は、以前、私達夫婦が住んでいた家なのです。

しかし、同じ家でも、住む人が違うと全く違う雰囲気になります。部屋のカラーも調度品も、まったく変わり、別の家のような印象を受けるのです。また、私達が雑草を育てていた庭は、整然と花と野菜が植えられ、見違えるようになっていました。

聖書には、部屋を題材にしているたとえ話があります。

汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう。

マタイ12:43-45

このたとえ話で、イエス様は何を伝えようとされたのでしょうか?このたとえ話における飾り付けは、良い意味ではありません。これは、自分を義とする心を表しています。

自分を義とする心を持つと、それはそれだけでは終わらず、必ず、人を裁く人になってしまうのです。人を裁く心には、イエス様は住むことができません。そこに居座るのは、悪霊になってしまうのです。

このことをイエス様は、神殿で祈る二人の人のたとえでも話されました。

それは、パリサイ人と取税人の祈りです。

パリサイ人は、このように祈りました。「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。」

パリサイ人は、外面上は立派な人物でした。自分の行いという義で、飾り付けがされていたのです。しかし、神様の目には、罪びとでした。なぜなら最も大切な戒めである、神様と人への愛がなかったからです。

一方、取税人は他の人と一緒に礼拝するのも申し訳なく思い、人から離れて一人で、「目を天にむけようともしないで、胸を打ち」、深い悲しみをもって神様に祈ります。人からは軽蔑され、また神様に訴えるような何の功績も持たないこの取税人は、絶望のあまり、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫びました。彼の唯一の希望は、神様の憐みだけでした。そして、彼は憐れみを受け、祝福を受けるのです。

イエス様は、「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人で」あったと言われました。

私達も、自分の本当の姿が分かるように、真理のみ言葉という目薬をさしたいと思います

そして、自分の罪深さを認めると同時に、神様の憐みにすがるものとなりたいものです。

私の愛読書から、一文を引用して、終わります。

罪を犯したために祈れないように感じる時こそ、祈る必要のある時であると告げなさい。たとえ恥ずかしくて、自分はつまらない者だと感じても、その罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を許し、すべての不義からわたしたちを清めてくださるのである。自分の無力を感じ、救い主の徳に全く信頼する者ほど、無力に見えても、実際は打ち勝ち難い者は他にない。祈りと神のみ言葉の研究と神の絶えざる臨在を信ずる信仰により、最も弱い人間も、生けるキリストと共に生きることができ、キリストはその手の中に彼らを支え、決して離されない。

また、『おやすみ前の聖書』の時間にお会いしましょう。

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