【おやすみ前の聖書】05_主の模範

お休み前の聖書
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【おやすみ前の聖書】05_主の模範                          2020.03.18

【おやすみ前の聖書】05_主の模範

皆さん、こんばんは。

突然ですが、皆さんは、普段、運動の習慣がありますか?私は、この数年、忙しさにかまけて、ほとんど家から出ない生活をしていました。しかし、伝道の働きにおいて、体力というのは、信仰と同じように本当に大事だと痛感して、最近はウォーキングをしています。

ウォーキングをしていると、大小、様々な公園を通ります。不思議なもので、公園の遊具というのは、三十年前と全く変わっていません。ブランコ、滑り台、鉄棒、シーソーです。小さい頃は、よくシーソーで遊んだものです。シーソーにおいて、残念なのは、どちらかが上に行くと、片方が必ず下がってしまうということです。勿論、子供にはそれが楽しいわけですが、私達の社会はまるで、シーソーのようなものだと感じます。自分が偉くなるためには、誰かを下げようとする。自分が儲かるためには、誰かが損をする。そんな考えの代表が、アメリカファーストという考え方かもしれません。

こういった考え方は、残念ながらイエス様の直弟子たちの中にもありました。弟子たちは、職業も、家族も、何もかもを捨てて、イエス様の弟子になりました。しかし、心の中に最後まで、他人よりも、上に立ちたいという欲望が残っていたのです。

イエス様は、そんな弟子たちに謙遜の模範を示すために、弟子たち一人一人の足を洗われたと聖書に書いてあります。

こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。

ヨハネ13:12-15

当時の社会では、靴ではなくサンダルのようなものを履いていたので、足はとても汚れました。そのため、家にはいるとその家の僕が、客人の足を洗うことになっていました。

そのような仕事を、イエス様が自らされたのです。

イエス様は、弟子たちの足から土埃だけを除こうとされたのではなく、利己心、高慢な心を洗い流されたいと切望されたにちがいありません。全く違う価値観を、模範をもっておしえられたのです。

その価値観は、自己犠牲の愛に生きるということです。そのような生き方が天国の生き方だからです。そのような生き方は、今も、昔も、これからも人気がありません。しかし、この新しい価値観を持たないなら、教会員にはなれても、イエス様の弟子にはなれません。

シーソーの生き方から、足を洗いましょう。そして、イエス様の足跡を歩んでいきましょう。

最後に一つの詩を紹介します。

空にではなく

主の御顔をその愛に溢れる御顔を、一目みたくて、

空をいつも、見上げていた。

ふとした時に、苦しい時に、嬉しい時に、

もしかすると、主の御顔を見ることができるのではないかと

空をいつも、見上げていた。しかし、空は、いつまでも空のまま。

主よ。あなたの御顔を一目だけでいいので、見せてください。

それだけが願いだった。それでも、御顔を見ることができないので、

ただ悲しくて、とめどもなく涙がこぼれた。

涙につられて下を向くと、そこに主がおられた。

こともあろうに、私の足をも洗おうとしてくださっていた。

申し訳なさにもっと泣いた。

主は、空にではなく、私の傍に、私の足もとにいて下さる。

その主をのみ、ぬかずき拝したい。

その主の足元にいつもいたい。

また、『おやすみ前の聖書』の時間にお会いしましょう。

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