【おやすみ前の聖書】18_心の渇きを癒す水 2020.04.13
皆さん、こんばんは。今日も一日お疲れ様でした。毎日、色々なストレス、不安などもあるかと思います。皆様の健康状態、心の状態が守られるようにお祈りしています。
皆さん、こんばんは。
今日は東京は朝からずっと雨です。もしかすると録音に少し、雨の音が入ってしまっているかもしれませんが、ご理解いただければと思います。
私が若い頃は、雨の日は何となく、気分が憂鬱でした。しかし今は、雨の日には、雨の日の過ごし方があるということに気が付き、意外と好きになりました。何故だか、本読んだり色々な考え事をするのは、雨の日のほうがはかどります。
雨が降らなければ農作物は育たず、水不足になり困ってしまいます。
そういう意味では、雨は私達の生活になくてはならないものです。
水がなくては、私達も、動物も、植物も生きていくことはできません。
聖書では、目に見える水ではない、もう一つの水について教えている個所があります。
ヨハネによる福音書4章の話です。
イエス様は、スカルという場所の井戸のところで、ある女性に出会います。そして、その女性に井戸の水を汲んで自分に飲ませてほしいと頼まれます。しかし、女性は突然の依頼に戸惑いを隠せません。
イエス様はユダヤ人で、女性はサマリヤ人といわれている人で、当時の社会ではいがみ合った関係性にあったからです。しかも当時の社会では、男性から女性に話しかけるということは、まずないことだったのです。ですからまさか頼みごとをされるなどとは思ってもいなかったのです。そんな女性にイエス様は、こう答えられます。
ヨハネ4:13-15
イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。
ここでイエス様は、飲み水としての水ではなく、魂の渇きをいやす水について話されました。
この女性は、是非ともその水が欲しいと思ったのですが、イエス様は突然、「あなたの夫を連れてきなさい」と、全く違う話題を話されます。実はこの女性は、すでに5人の男性と離婚をしているという過去があったのです。この女性がイエス様が与える水を飲むためには、まず、自分の渇きに気が付く必要がありました。彼女は、自分の心の渇きを男性によって埋めようとしていました。しかし、それは、彼女の渇きをどんどん増していったのです。
そんな一人の女性にイエス様は、ご自身をその渇きから救うことのできる唯一の存在、救い主として、あらわされたのです。
女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。
ヨハネ4:25-26
イエス様は、ご自分こそが、あなたのその渇きをいやすことのできる存在だと明言されました。 イエス様ご自身がその水だったのです。このイエス様に出会って、この女性はまったく違う別人になり、町中の人を伝道する立派なイエス様の弟子となりました。
実に、『その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』。という
言葉が成就したのです。
皆様の心の渇きはなんでしょうか?その渇きを癒せる方は、イエス様だけです。
私達が、切にイエス様に出会うことを求める時に、このような約束があります。
わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される。
ホセア6:3
聖書の知るということは、深い愛の関係性のことを意味します。私達が、日々にイエス様がどのような方であるかを知り、ともに困難を乗り越えていくうちに、ますます愛情と信頼がましていきます。すると、そのような生き方は、自分だけではとどまらず、心から喜びが湧きあがり、それが流れ出るのです。
このイエス様との信頼関係には、今日から入ることができます。
そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
黙示録21:6
私達が探しているものは、絶対的で普遍的な愛の関係です。
スカルの井戸のところにいた女性は、その愛をイエス様のうちに発見し、人生が変わりました。
次は、私達の番ではないでしょうか?
また、この時間にお会いしましょう。