【おやすみ前の聖書】20_すべては神様のもの 2020.04.15
皆さん、こんばんは。今日も一日お疲れ様でした。
今朝、仕事前の少しの時間に、娘と遊んでいました。
そこへ、家内がやってきて、娘にこう言いました。『あら、お父さんと遊んでくれているの!』
勿論、お父さんが遊んでくれているのと言いたかったのだと思います。
しかし、果たしてどちらが正解なのでしょうか?私が遊んであげているのか?それとも、遊んでもらっているのか?
今回の件は別にしても、もしかすると、してあげているという自覚のなかに、気が付かない心の慢心のようなものがあるのかもしれません。
私は、毎日忙しく伝道の仕事に携わっています。それは、ただ恵みであるとしかいうことができません。死刑執行を待っていた罪人が、死刑を免れるなら、どれほどの幸せでしょうか?それだけでも一生分の感謝がありますが、それだけでなく、主と日々に共に歩き、魂の救いという働きを共にさせていただいているのです。
この働きは神様の働きであり、私達はしもべです。私達に与えられているすべての物は神様のもので、私達はそれを使わせていただいているのです。
ダビデは、そのことをこのように言っています。
歴代上29:14
しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、
わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。
すべての物はあなたから出ます。
われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。
ダビデは、イスラエルの王様のなかで最も多く、感謝をささげた王様です。それは、彼が、
すべての物は神様からの賜物であることを知っていたからです。
このことを忘れる時に、私達の心に不満の心が、生まれてしまうのです。
旧約聖書の偉大な信仰者の一人にヨブという人がいます。
彼は、信仰のために持っている者、土地、家畜、家、友人、家族、すべてを失った人物です。
その彼が、すべてを失った時に、語った言葉があります。
・・・「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
ヨブ1:21
私達のすべての歩みは、神様の御手の中にあります。私達は、すでに買い取られた存在です。
そのことは、なんという安心感を私達に与えるでしょうか?
神様は、ご自身の命と引き換えにしても、私たちに幸せになってほしいと願われました。
そして、もう一度、永遠に生きるものになってほしいと願われました。
それほどの価値が、あなたにはあるのです。
それゆえに、聖書はこのように言っています。
あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。
それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
1コリント6:20
神様の栄光とは、神様の品性のことです。
そして、神様の品性とは、自己犠牲の愛の品性なのです。
そのような品性を表すことが、私達の使命であり、召命です。
また、この時間にお会いしましょう。