【おやすみ前の聖書】09_朽ちない冠 2020.03.25
皆さん、こんばんは。本来なら今年はオリンピックイヤーでしたが、コロナウィルスの影響で、延期になると発表されましたね。どの立場で考えるかですが、そのために人生をかけて努力をされていた選手の方を思うと心が痛みます。しかし、現状を見るなら、いたしかたない決断だったと思います。
何かの世界で、世界一になる努力というのは、並大抵なことではありません。それゆえに、オリンピックでの金メダルの栄誉というものは、大きなものです。しかし、それほど偉大な功績も、10年、20年経つと、人々からは忘れ去られ、その記録も塗りかえられていきます。
聖書は、人の栄華について、こう語っています。
「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
1ペテロ1:24-25
聖書にでてくる人物のなかで、最も高い身分にいたモーセという人がいます。
彼は、当時の世界の覇者であったエジプトの王になる機会をもっていた人物でした。
しかし、彼の選択は、エジプトの王として、歴史に名を刻むことではありませんでした。
彼は、自分の人生における神様の目的を果たすことを最高の栄誉だと考えたのです。
聖書は、こう言っています。
信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
ヘブル11:24-26
彼が、望みみていた報いとは、何だったのでしょうか?この世的な報いではありません。
なぜなら、彼はそれを全て持っていたからです。名誉、お金、権力、土地、すべてを約束されていたのです。では、彼の望み見ていた報いとは、何だったのでしょうか?
それは、神様の働きの一部を担うことでした。彼は、イエス様のように、自分の人生の全てをかけて神の民を守り、約束の地に導くことを何よりも素晴らしいことだと考えていました。 天において、彼の生涯によってキリストに導かれた多くの人の幸せを、彼は、エジプトの宝に勝る富と考えたのです。
私達ひとりひとりには、神様から与えられている才能、機会、富、時間があります。それらを朽ちてしまう冠のためではなく、朽ちない冠のために用いる人になっていただきたいと思います。神様の働きといっても、気負う必要はありません。すべての人が牧師になる必要もありません。与えられた場所で、イエス様に従うものとして、小さなことから始めればよいと思います。昨日よりも、まわりの人に親切にする。家族にありがとうを心から伝える。そういう小さなことが積み重なって、神様の国が、この地上で始まります。
また、お会いしましょう。