【おやすみ前の聖書】16_聖書の目薬

お休み前の聖書
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【おやすみ前の聖書】16_聖書の目薬         2020.04.07

【おやすみ前の聖書】16_聖書の目薬

皆さん、こんばんは。今、皆様のところから、月をみることはできますか?私のところからは、きれいな満月が出ていました。驚いたことに、私が見る月は何度見ても、二重に見えました。少し目を酷使しているので、乱視が進んだのかもしれません。私の目には、月が二重に見みえても、実際に月が二つあるわけではありませんね。

しかし、私の目には事実、そう見えているのです。だれが何と言おうと、それが、私の現実です。

私達が見ている世界というのは、多くの場合において、必ずしも真実ではありません。

過去の経験、過去の心の傷、今までの教育や、考え方の癖、そういったことによって、心の目の角膜にひずみができてきるのです。その状態によって、物事を見ると、歪んで見えてしまうのです。そういった認識のずれは、多くの問題の原因となります。

ですから、自分の目に正しく見えることではなく、聖書の目薬によって、霊的に開かれた目で物事をみる必要があります。

イエス様は、このように言われました。

ヨハネ9:41

イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

私達には、人の欠点はよく見えても、自分の罪が見えません。

マタイによる福音書7:3からお読みします。

マタイ7:3-5

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、

あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。

偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。

そうすれば、はっきり見えるようになって、

兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイ7:3-5

梁とは建物の屋根を支えている水平方向の柱です。建物において重要で太い柱です。それが、私達の目にあるというのです。自分を正しいと思う時に、それ以外の見方はできなくなってしまうのです。

私達の高慢さというのは、自分では気が付けないということです。見えていないことは、気がつけないのです。

しかし、希望はあります。

イエス・キリストは、私達の目を開いてくださる方です。

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。

群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。

ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、

声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。

先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。

そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。

彼が近づいたとき、「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、

「主よ、見えるようになることです」と答えた。

そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。

すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。

ルカ18:35-43

信仰とは、自分の目がみえないことを、自分がそう感じるからではなく、主がそういわれるので、信じることです。そして、その目をあける力をイエス様がお持ちであることを、信じることです。

私達の目が真理に開かれ、見えるようになり、神様をあがめながら、イエス様に従っていきたいと思います。

また、お会いしましょう。

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