【人生を変える祈り】①  祈りとは何か?

人生を変える祈り
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祈りとは何か?

神様は、自然と聖書、摂理、および聖霊の感化を通して私たちに語られます。しかしそれだけでは十分でありません。私たちもまた、神様に心を注ぎ出す必要があります。霊的生命と力を得るためには、私たちの天の父と実際に交わらなければなりません。私たちは、心が神様に引かれ、神様のみわざ、あわれみ、祝福などを瞑想するでしょうが、これは、十分な意味での神様との交わりではありません。 神様と交わるためには、私たちの毎日の生活について、何か神様に話すことがなければなりません。

 祈りとは、友だちに語るように、心を神様に打ち明けることです。これは、私たちがどのようなものであるかを神様に知らせる必要があるからではなく、私たちが神様を受け入れるのに必要だからです。祈りは、神様を私たちのところへ呼びおろすのではなく、私たちを神様のもとへとひき上げるのです。

イエス様は、この世界においでになったとき、弟子たちにどのように祈るかを教えられ、毎日の必要を神様に求め、どんな心配事もみな神様に任せるように指導されました。そして、彼らの祈りは必ず聞かれるという保証をお与えになりましたが、それはまた、私たちに対する保証でもあります。

 イエス様ご自身も、人々の間に住んでおられたとき、たびたび祈られました。救い主は、ご自分も私たちと同じように、欠乏と弱さを覚えて、義務や試練に耐えるための新しい力を天父より受けるために、熱心に祈り求める者となられました。彼は、すべてのことにおいて私たちの模範です。彼は、弱い私たちの兄弟となり、「すべてのことについて、私たちと同じように試練に会われ」ました。しかし、罪のないお方でしたから、そのご性格が悪を退けたのでした。彼は罪の世にあって、激しい心の戦いと苦悩に耐えられました。彼の人間性は祈りを必要とし、また特権とされました。イエス様は、父なる神様と交わられることにより、慰めと喜びを受けられました。人類の救い主である神様の子でさえ、祈りの必要を感じられたのですから、弱く罪深い人間には、どれほど熱心な、絶え間ない祈りがなければならないことでしょう。

私たちの天の父は、あふれるばかりの祝福を私たちに与えたいと待っておられます。限りない愛の泉から、命の水を豊かに飲むことは私たちの特権です。それなのに私たちがほんの少ししか祈らないのは、なんと不思議なことでしょう。神様は、その子らのどんなにみじめな者であっても、心からの祈りには喜んで耳を傾けようとしておられます。それなのに、私たちの方で、私たちの願いをなかなか神様にお知らせしようとしないのです。神様は、限りない愛をもって人類をみ心にかけ、いつでも私たちが求めたり、思ったりする以上に与えようとしておられるのに、誘惑に負けやすい、哀れな力のない人間が、ほんの少ししか祈らず、小さな信仰しか表さない様子を見て、天使たちはいったいどう思うことでしょう。天使は神様のみ前にひざまずき、神様のそば近くにいることを喜び、神様と交わることを最高の喜びとしています。それなのに、神様のほか与えることのできない助けを最も必要としている地上の子らが、聖霊の光を受けることも、神様との生きた交わりもなく、満足して日を送っているように思われるのです。

悪魔は、祈りをおろそかにする者を暗黒に閉ざし、誘惑の言葉をささやいて罪を犯させようとします。それはただ私たちが、神様の定められた祈りの特権を用いないからです。祈りは、全能の神様の、無限の資財が蓄えられている天の倉を開く、信仰の手に握られた鍵です。それにもかかわらず、神様の子らは、なぜ祈りをおろそかにするのでしょう。絶えず祈り、忠実に見張っていなければ、私たちは次第に不注意になって、正しい道からそれる危険があります。敵は恵みのみ座への道をさえぎって、私たちが熱心な祈祷と信仰によって、誘惑に耐えるための恵みと力を受けられないように絶えず働いています。

応えられる祈りの条件

神様が私たちの祈りを聞き、それに答えられるには一定の条件があります。まず第一に、私たちは、神様の助けが必要なことを感じなければなりません。神様は、「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ」(イザヤ44:3) と約束しておられます。飢え渇くように義を慕い、神様を慕う者は必ず満たされるのです。聖霊の感化を受けることができるように心を開かなければ、神様の祝福を受け入れることはできません。

 私たちが大きな必要を感じているということは、それ自体が、動かすことのできない理由であり、私たちのために最も雄弁に語ってくれます。けれども私たちは、それらの必要を満たしてくださる方として神様を求めなければなりません。彼は、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」(マタイ7:7)と言われました。また、「ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、み子のみならず万物をも賜らないことがあろうか」(ローマ8:32)とも言われています。

第二番目は、心の罪を正すということです。もし、心に不正のあることを知り、罪と知りながらそれに執着しているならば、主はわたしたちの祈りに耳を傾けられません。けれども、心の砕けた悔い改めた者の祈りは、必ず聞いてくださるのです。心に覚えのある悪をすべて正したときに、神様は私たちの願いを聞いてくださると信じることができます。もちろん、私たち自身のどんな行為も、神様の恵みを受けるにはなんの価値もありません。私たちを救うのはイエスの功績であって、わたしたちを清めるのもイエスの血です。しかし受け入れられるには、私たちにもしなければならないことがあります。

力ある祈りの第三の要素は信仰です。「神様に来たる者は、神様のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを必ず信じるはずだからである」(ヘブル11:6)。イエスも「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と弟子たちに語られました。私たちは、み言葉をこの通りに受け入れているでしょうか。

この保証は広大無辺なものですが、誠実な神様の約束です。私たちが祈ったときに、求めた通りのものが与えられなかったとしても、主は私たちの祈りを聞き、答えてくださることを信じなければなりません。私たちは間違いが多く、先を見ることができませんので、自分の祝福にもならないことを願うことがよくあります。けれども天の父は、愛のうちにその祈りに答え、私たちのために最も良いものをお与えになるのです。それは、もし私たちが天からの光に目が開かれ、すべてのものの真実の姿をながめることができたなら、私たち自身も必ず求めるものです。私たちの祈りが聞かれないように見えるときも、約束にかたく頼らなければなりません。なぜなら、祈りが答えられるときが必ず来て、私たちが最も必要とする祝福を受けるようになるからです。けれども、祈りはいつもわたしたちが望んだように答えられ、または、望んだ通りのものが必ず与えられると考えるのは、独断にすぎません。知恵に満ちておられる神様は、決して誤ることなく、また、正しく歩む者に良いものを拒まれることはありません。ですから、たとえ祈りがすぐ答えられなくても、恐れず神様に頼り、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)という神様の確かな約束を信頼しなければなりません。

疑いや恐れに支配され、はっきりわからないことをみな解決した上で信仰を持とうとするなら、私たちはますます迷いの深みに陥るばかりです。けれども、もし私たちがありのままの姿で、自分の力なさ、頼りなさを感じて神様のもとに行き、限りない知恵を持たれる神様に、謙遜に信頼をもって私たちの必要を告げるなら、造られたすべてのものを見守り、み旨とみ言葉をもってすべてを支配しておられる神様は、私たちの叫びに耳を傾け、心に光を照らしてくださいます。真心からの祈りを通して、私たちは無限の神様のみ心に触れるのです。そのとき、あがない主が、愛とあわれみに満ちて私たちをながめておられるという特別な証拠が与えられなくても、それは事実です。また彼のみ手の接触を実際には感じなくても、愛とあわれみに満ちたやさしいみ手は、私たちの上に置かれているのです。

第四番目に、神様のあわれみと祝福を求めるときは、私たちの心のうちに愛とゆるしの精神様を持っていなければなりません。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイ6:12)と祈りながら、他人をゆるせない気持ちを持っておれるでしょうか。もし、自分の祈りが聞かれることを期待するなら、自分がゆるされたいと望むような態度と程度で、同じように人をゆるさなければなりません。

第五番目に、忍耐して祈ることは、祈りが聞かれるためのもう一つの条件です。信仰と霊的経験に成長したいと望むなら、私たちは絶えず祈らなければなりません。私たちは「常に祈り」(ローマ2:12)、「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続け」(コロサイ4:2)なければなりません。ペテロは信者に「心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい」(Ⅰペテロ4:7)と勧めています。パウロは、「ただ事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神様に申し上げるがよい」(ピリピ4:6)と教えています。またユダは「しかし愛する者たちよ、あなたがたは、最も神様聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神様の愛の中に自らを保ち」(ユダ20、21)なさいと言っています。絶えず祈るとは、魂がいつも神様と結びつき一致していることであって、神様の生命力が私たちの命の中に流れ込み、私たちの生活から純潔と聖潔とが神様に帰っていくことです。

祈りは努めてしなければなりません。何ものにも邪魔されてはなりません。イエスとあなたの魂との交わりを、常に保つことができるよう、全力を尽くさなければなりません。そして祈りがささげられるところへは、努めて機会あるごとに行かなければなりません。神様とほんとうに交わりたいと求める人は祈祷会に出席し、自分の義務を忠実に果たし、できる限りの利益を得ようと思って熱心です。彼らは、天からの光を受けられる所へはできるだけ機会を作って出かけます。また、家族と共に祈らなければなりません。わけても、密室の祈りをおろそかにしてはなりません。これは、魂の命であるからです。祈りをおろそかにしていながら、魂の健全を願うことはできません。家族の祈り、また、公の祈りだけでは不十分です。人のいないところに退いて、心を探られる神様のみ前に心をすっかり開かなければなりません。

密室の祈りは、祈りを聞かれる神様にだけ聞かれるべきで、好奇心にかられて人が聞いたりすべきものではありません。密室の祈りでは、心は周囲の影響を受けたり、また、興奮したりすることもありません。静かにしかも熱心に、神様に近づこうとします。そのとき、隠れたことを見ておられ、心からの祈りに耳を傾けられる神様から、うるわしく、永久的な感化を受けられるのです。穏やかでしかも単純な信仰によって、魂は神様との交わりを保ち、神様から光を受けて、悪魔との戦いに立ち得るために心は強められ支えられるのです。神様は、私たちの力の源です。

密室で祈りましょう。毎日の仕事をするときにも、しばしば心を神様に向けなければなりません。エノクはこのように神様とともに歩んだのです。黙祷は、恵みのみ座の前に尊い香りのように上っていきます。このように、神様に心を委ねた人に、悪魔は勝つことはできないのです。

 神様に祈りをささげるのに、不適当な時とか場所とかはありません。熱心な祈りの精神様をもって、心を天に向けるのに妨げとなるものは何もありません。雑踏の中でも、商売の最中でも、ちょうどネヘミヤがアルタシャスタ王の前で自分の願いを告げたときのように、神様に願いをささげて導きを請うことができます。祈りの密室はどこにでもあります。私たちは、絶えず心の戸を開いて、イエスを天来の客として心のうちに住んでいただくよう招待しなければなりません。

 たとえ私たちは、汚れた腐敗した空気に包まれていても、その毒気を吸う必要はなく、天の清い空気の中で生きることができるのです。真剣に祈って心を神様の前に高め、不潔、不正な思いが入らないようあらゆる戸を閉じることができます。神様の助けと祝福を受けようとして心を開いている者は、この世の人より清い雰囲気の中を歩き、天と絶えることのない交わりを続けることができます。

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