【キリストを映して】④ キリストはわたしたちに 生ける水を供給なさる

キリストを映して
この記事は約3分で読めます。


「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。」 (ヨハネ7:37, 38)


祭司は、荒野で岩を打ったことを記念する行事をとりおこなった。その岩は、ご自分の死によって、かわいているすべての者に向かって救いの生ける水を流れさせてくださるキリストの象徴であった。キリストのみことばは生命の水であった。集まった群衆の目の前で、キリストは、生命の水が世に流れ出るように打たれるためにご自分を聖別された。サタンは、キリストを打つことによって、いのちの君を滅ぼそうと思ったが、打たれた岩からは生ける水が流れ出た。イエスがこのように人々に語られたとき、彼らの心はふしぎなおそれにうちふるえ、多くの者は、サマリヤの女のように、いまにも「わたしがかわくことがな……いように、その水をわたしに下さい」と叫びそうになった( ヨハネ4:15)。


イエスは魂の欲求を知っておられた。はなやかさや富や名声は心を満
足させることができない。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」。金持も貧しい者も、身分の高い者も低い者もみな一様に歓迎される。イエスは、重荷を負った心を助け、悲しむ者を慰め、落胆した者に望みを与えると約束しておられる。イエスのみことばを聞いた者の中には、望みを失って嘆いている者や、ひそかな悲しみを心にいだいている者や、やむことのない心のあこがれを世俗の事物と人々の称賛によって満たそうとしている者が多かった。だが彼らは、これらのものをすべて手に入れたとき、自分のほねおりによって到達したものはかわきをいやすことのできないこわれた水槽にすぎないことを知った。はなやかな歓喜の光景のさなかに、彼らは不満と悲しみのうちに立っていた。「だれでもかわく者は」というその突然の叫びが、彼らを悲しい思いから呼びさました。そしてそれにつづくことばを聞いたとき、彼らの心には新しい望みの火がともった。


聖霊は彼らの前に象徴を示されたが、ついに彼らはその中に無限の価をもった救いの賜物が提供されているのに気がついた。
かわいた魂に対するキリストの叫びはいまもなお出されており、それはあの祭の最後の日に宮で聞いた人々に対するよりももっと強い力でわれわれに訴えている。泉はすべての人のために開かれている。疲れ果てた人々に、清新な力を与える永遠の生命の水が提供されている。イエスはいまもこう叫んでおられる。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」。「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」( 黙示録22:17)。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」( ヨハネ4:14)。(各時代の希望中巻234, 235)

タイトルとURLをコピーしました