【恐れるな、小さい群れよ】④ 博士たちの信仰

恐れるな、小さい群れよ
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「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、『ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。」(マタイ2:1, 2)


この賢者たちは、自然の探究者であり、神のみ手のわざの中に神を認めたのである。ヘブルの聖書から、彼らは、ヤコブから星が現われることを学び、「イスラエルの慰め」であるばかりでなく、「異邦人を照す啓示の光」であり、「地の果までも救をもたらす」おかたが来られるのを熱心に待望していた(ルカ2:25,32; 使徒行伝13:47)。

彼らは光を求めていた。そして、神のみ座からの光が彼らの歩く道を照らした。真理の擁護者、また解説者として任じられたエルサレムの祭司や教師たちが、暗黒に閉ざされていたときに、天からの星はこれら異邦の旅人を、新たにお生まれになった王の誕生地へと導いたのである。(各時代の大争闘上巻404)
主は、宇宙の恩人、無限の愛の存在であられる。このお方の優しい憐れみが、そのすべてのみわざの上に及んでいる。このお方は真理を持っていない様々な国にいる人々の大きな欠乏をご覧になる。幾千もの人々が自分の現状に満足しておらず、より良い道を知りたいと望んでいる。彼らは光に飢え渇いており、より大きな保証、より深い霊性を切望している。思いが大いにかきたてられている。それでいながら、彼らにメッセージを携えて行く者がなんと少ないことであろう!

兄弟がたよ、わたしたちは自分自身の心のうちに神の御霊のより深い働きを必要としている。イエスは天において富んでおられた。しかし、わたしたちのためにこのお方は貧しくなられた。それはこのお方の貧しさを通して、わたしたちが富んだ者とされるためであった。キリストの生涯、その自己否定と自己犠牲は、自分の同胞を救うためにできることをなすというこの大いなる働きに携わることができるし、そうすべき者たちの怠惰と不活動を譴責する。(レビュー・アンド・ヘラルド1879
年2 月6 日)

キリストの働き人一人びとりは、自分のいるところで始めなければならない。自分自身の家族の中に、同情に飢え、命のパンがなくて死にかかっている魂がいるかもしれない。キリストのために訓練すべき子供たちがいるかもしれない。まさにわたしたちの戸口に異教徒がいるかもしれない。最も近いところにある働きを忠実になそう。それから、わたしたちの努力を、神のみ手が道を導かれるがままに広げていこう。多くの人々の働きは状況に制限されているように見えるかもしれない。しかし、どこであろうと、もし信仰と勤勉さをもってなされるならば、それは地の最果てまで感じられるようになる。……神はしばしば、もっとも偉大な結果を果たすために、もっとも単純な手段をお用いになる。(同上1913 年10 月9 日)

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