【キリストの実物教訓】 第一章 イエスのたとえばなし-3

キリストの実物教訓
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イエスのたとえばなし -3

こうしてイエスは、スパイには、なんの手がかりも与えないでおきながら、真理を明らかにして、誤りをはっきり示されたので、真面目な人はイエスの教えによって啓発されるところが多かった。神の知恵と無限の恩恵とが、神の創造されたものによって明らかにされた。

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」

(ローマ 1:20)。

救い主のたとえ話には、真の「高等教育」がなんであるかが示されている。キリストは、科学のどんな深い真理でも、人に説明することがおできになった。人類が、幾世紀もの努力と研究を重ねて、到達できるような神秘の扉を、開くこともおできになった。また、世界の終わりにいたるまでの思想のかてとなり、発明の刺激となる科学的提言をすること、主には可能であった。しかし、彼はそうはされなかった。人々の好奇心を満たし、または世俗的の偉大さへの希望をいだかせて、野心を満足させるようなことは、何も言われなかった。キリストは、何をお教えになっても、人間の心を、無限の神の心に接触させるようになさった。神と、神のみ言葉、または、神の働きに関して、人間が述べた理論を学ぶようには、少しも指導なさらなかった。彼は、神の創造の働きと神のみ言葉と、そして、神の摂理の中に示されている神をながめるようにとお教えになった。

キリストは、抽象的理論はお扱いにならないで、品性の向上に必要なもの、神を知る能力を高め、善を行なう力を増すものを扱われた。彼は、日常生活の行状とか、永遠に関する真理について語られたのである。

むかし、イスラエルの民の教育を指導したのは、キリストであった。神の戒めと定めとについて、主は、こう言われた。

「努めてこれをあなた の子らに教え、あなたが家に座している時、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」

(申命記 6:7-9)。

イエスは、この戒めをどうして守ることができるか、すなわち、神の国のおきてと原則の美しさと尊さを、どうすればあらわすことができるかを、その教えの中で示された。

主がイスラエルの民族をご自分の特別の代表者とするために訓練なさっ
た時、住居として彼らにお与えになったのは、山地や谷間であった。彼
らの家庭生活と宗教的行事とは、常に彼らを自然と神のみ言葉とに接触
させた。そのように、キリストも弟子(でし)たちを湖畔や山腹、または野や森林に導かれたので、弟子たちはお教えの中で引用される自然の事物を目の前に見ることができた。彼らは、こうしてキリストから学んだ知識を実際に活用して、主と協力して働いた。

わたしたちも、同様に、自然を通じて創造主を知らなければならない。
自然という書物は、一大教科書であるから、神の品性について人に教え
たり、いなくなった羊を神のおりに連れもどしたりするために、聖書と
ともに用いなければならないものである。神のみわざを研究すると、聖
霊が人の心に確信を与える。この確信は、理論的推論から得られるもの
ではない。しかし、神を知ることができないほどに心が暗くなり、神を
見ることができないほどに目がくらみ、み声を聞くことができないほど
に耳がにぶくなっていないかぎり、人は、その深い意味を理解し、崇高
な霊的真理に強い感銘を受けるのである。

このような自然からの直接の教訓を、何にもまして価値あるものとするのは、その単純さと純粋さである。自然からの教訓は、すべてのものに必要である。もともと、自然の美は、罪とそして、世の誘惑から人の心を引き離して、純潔と平和と神へと向けさせるものである。とかく、学生の心は、いわゆる科学や哲学と名づけられている人間の学説や推論にとらわれる。学生は、親しく自然に接する必要がある。そして、自然の神も、キリスト教の神も、1つであることを学ばなければならない。自然界と霊界は一致していることを彼らに教えなければならない。彼らの目が見、手が触れるすべてのものを、品性建設の教訓としなければならない。こうして、彼らの知力は強められ、品性は啓発され、生活が全面的に高尚にされるのである。

キリストが、たとえ話を語られた目的は、安息日の目的と全く同じものであった。神のみ手のわざを見て、人間が神を認めるようになるために、神は、ご自分の創造の力を記念するものを、人間にお与えになった。

安息日は、自然の中に、創造主の栄光を見ることを、わたしたちにうな
がしている。そして、イエスが自然界の美とご自分の尊い教訓とを結合
されたのも、そのことを願われたからである。わたしたちは、清い休み
の日には、他のどんな日にもまさって、神が自然の中に書かれた使命を
学ばなければならない。わたしたちも、救い主がたとえ話をお語りにな
った野原や森林、あるいは戸外の草花の中などで、たとえを研究しなけ
ればならない。自然のふところに近づけば近づくほど、キリストは、ご
自分の臨在を明らかにわたしたちに示して、平和と愛の言葉をお語りに
なるのである。

キリストは、単に安息日ばかりでなく、普通の労働の日にも、教訓を結びつけられた。彼は、畑を耕し、種をまく人に、知恵をお与えになった。畑にあぜを作って種をまき、耕しては収穫を刈りとるということから、キリストの恵みがどのように人の心の中で働くかを学ぶように、主はお教えになる。こうして、どんな職業に従事し、どんな社会にいよとも、そこで神の真理を学ぶようにイエスは望まれる。そうする時、日常の雑事に心を奪われて、神を忘れることはない。自然は常に、わたしたちの創造主であり、あがない主であるイエスを思い起こさせる。神の思いは、黄金の糸のように、わたしたちのすべての家庭の仕事や職業の中に一貫して見られるようになる。そして、わたしたちは、神のみ顔の栄光が、再び自然界の上に輝くのを見る。わたしたちは、天の真理を学び続けて、主の純潔なお姿へと成長し続けることであろう。こうして、わたしたちは、「主に教をうけ」るものとなり、召されたそれぞれの場所で、「神のみまえにいる」ことであろう(イザヤ54:13、Ⅰコリント 7:24)。

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