【初めての聖書】 第34課 管理者としてのクリスチャン

初めての聖書
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≪序≫

 神は全宇宙をおつくりになりました。したがって「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである」(詩篇24篇1節)と言われているように、この世界のすべてのものの真の所有者は神です。

「銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる」

(ハガイ書2章8節)。

神は私たちにいろいろなものを与えておられます。よく考えると私たちの持っているもので、神よりいただいていないものはありません。

私たちは働いてお金をもうけるといいますが、生命が与えられていなかったら、また健康でなかったら働くこともできません。

農夫が米を作るといっても、太陽の光や温度や水など、大自然を通して働かれる神の力がなければ収穫を得ることはできません。「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」(ヨハネによる福音書3章27節)。この課では私たちが神より与えられたものをどのように取り扱っていくべきかについて学んでみたいと思います。

1. 管理者

神の所有権を認めるクリスチャンは、神より与えられたものの管理者という立場なのです。コリント人への第1の手紙4章2節に「管理者に要求されているのは、忠実であることである」とあります。私たちは与えられたものを忠実に用いて、神のみ旨に沿うようにつとめるべきです。管理者の忠実についてキリストは次のようなたとえをお話しになりました。

「また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。ニタラントの者も同様にして、ほかにニタラントをもうけた。しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。主人は彼に言った、良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれてニタラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしにニタラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。」

(マタイによる福音書25章14節―30節)。

このたとえばなしの中で旅に出た人とは、キリストのことです。このときキリストは間もなく天に帰ろうとしておられました。僕どもとは、キリストの弟子たちのことです。私たちのすべては、自分自身のものではありません。私たちは、「代価を払って買いとられた」(コリント人への第1の手紙6章20節)もので、しかも、それは

「銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(ペテロの第1の手紙1章18節、19節)。これは、「生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである」

(コリント人への第2の手紙5章15節)。

キリストが再びおいでになるとき、私たちは神からあずかったものについて報告し、決算しなければなりません。5タラント(ギリシャ時代に用いられたお金の単位)渡された僕は5タラント、2タラントあずけられた僕は2タラントをもうけました。主人は喜んでその忠実さをほめました。しかし何ももうけなかった僕は責任を問われました。神より与えられた能力を用いて奉仕をすることがクリスチャンの生涯なのです。

2. 与えられたタラント

このたとえ話のタラントから、才能を意味するタレントという言葉が一般に使われています。私たちに与えられているタレントには他にどんなものがあるでしょうか。

① 知能

知能を伸ばすことを神は求めておられます。特に若い人はあらゆる機会を利用して教育を受けることにつとめなければなりません。書物からの知識だけでなく、実際生活の中からも多くのことを学ぶことができます。また聖書と神との交わりによって、最高の知識を得ることができます。

② ことば

ことばは大事なタレントです。気品のある正しい言葉を語るように心がけねばなりません。気持ちのよい人間関係のためにも、ことばは大切です。またことばを用いて人に感化を与え、励ましたり助けたりすることができます。「いつも…やさしい言葉を使いなさい」(コロサイ人への手紙4章6節)。「聞いている者の益になるようにしなさい」(エペソ人への手紙4章29節)と聖書は命じています。

ことばとともに声の出し方も大切です。読んだり話したりするとき、明りょうな発音で、よく分かるように読み、音量のあるはっきりした丸味のある声で、印象深く語ることができるように努力すべきです。ある人は早口やボソボソした小さな声のためにそれを聞く人が、内容もよくわからず、不快感を覚えることもあります。

③ 感化力

だれにでも人を感化する力があります。接する人に明るい希望を与える人もあれば、暗い重苦しい気分を与える人もいます。私たちは自分のまわりに、あるふんい気をもっていて、意識するとしないとにかかわらず、接する人々に何かの感化を及ぼしているのです。

このような感化力は、私たちのことば、行為、服装、態度あるいは顔の表情などから生まれてくるものです。キリストのような品性をもち、健全な常識をそなえることによって、よい感化力を養うことができます。

④ 時

私たちに与えられている時は神のものです。失われた時は決してとりかえすことはできません。ですから神に対して厳粛な責任があるのです。時間をむだにしないように心がけましょう。あてのないむだ話、朝、床の中で浪費する時間などを活用すれば多くのことができます。「今の時を生かして用いなさい」(エぺソ人への手紙5章16節)というのが聖書のすすめです。

作者はわかりませんが、「人生の時計」という次の詩は、私たちの人生における時について、深い示唆(しさ)を与えています。

人生の時計は 一度しかねじをまかない

その針がいつとまるか

おそくか それとももっと早くか

だれも知らない

今だけがあなたの時間だ

生きよ 愛せ そして心をつくして働け

明日があると思ってはならない

なぜなら その時

人生の時計はとまっているかもしれないから

3. 健康

健康もタレントです。健康がなければ何もできません。聖書には「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリント人への第1の手紙6章19節、20節)と命じています。神のものであるからだを健康に保って、神と人とに奉仕する生活をおくりましょう。

このほかいろいろな能力を神はお与えになりました。たとえば家庭で主婦がいろいろな仕事をする能力もりっぱなタレントです。私たちに与えられているタレントはすべて自分勝手につかうのではなく、神のみ旨にしたがって、神と人とのために用いなければなりません。そうするときに、私たちのタレントものびていき、ほんとうに満足な、生きがいある生涯を送ることができます。

4. 金銭

金銭も神がお与えになる賜物です。聖書には「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。…主は…あなたに富を得る力を与えられるからである」(申命記8章17節、18節)とあります。ともすれば私たちは、自分の力で得たお金だから、自分で自由につかってよいと思いがちですが、それは大きなあやまりです。富んでいる人は神から大きな資本を任せられたのですから、み旨にかなうようにこれを用いる義務があるのです。

富をどうとりあっかうかについて聖書はよいすすめを与えています。

「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。…この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい」(テモテへの第1の手紙6章6節―10節、17節―19節)。

またキリストは次のようにいわれました。

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」

(マタイによる福音書6章19節―21節)。

① 十分の一献金

収入の十分の一を神にささげるという制度は、神がお定めになったものです。レビ記27章30節に、「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である」とあります。

一週間のうちの定められた一日を安息日としてきよく守ることにより、神が万物の造り主であることを認めるように、十分の一を神におかえしすることにより、神が万物の所有者であることを認めることになるのです。十分の一献金は伝道事業に用いられます。

キリストは十分の一献金について、

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味〔どれも香料に用いる植物=著者注〕の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」

(マタイによる福音書23章23節)

といわれました。

キリストはここで、どんな小さなものの十分の一でも、忠実に納めることの重要さを強調なさいました。また、単に形式的に十分の一を納めるだけでなく、同時に正しい生活がともなっていなければならないことも教えられたのです。

十分の一献金をする者には大きな祝福が約束されています。

「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる」

(マラキ書3章10節、11節)。

十分の一献金について、神が祝福を与えて下さるかどうか試してみなさいといわれているのは、この献金をすることによって、神の恵みを具体的に体験することができるからです。

② 感謝のささげもの

「そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ」

(詩篇96篇8節)。

「から手で主の前に出てはならない。あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない」

(申命記16章16節、17節)。

礼拝に出席するとき、感謝のささげ物をします。私たちは聖書の真理を知ることができましたが、まだ知らない人が多くあります。私たちのささげ物は、伝道事業のために使われるのです。

≪ 希望の言葉 ≫

わたしたちの時は、神に属するものである。一瞬、一瞬が神のものである。そして、わたしたちには、その時を神の栄光のために活用するように、きわめて厳粛な責任が負わせられている。神がお与えになった賜物のなかで、わたしたちの時間ほどに厳密な説明が求められるものは他にないのである。

時の貴重なことは、実に想像以上である。キリストは、1分1秒を貴重なものとみなされたが、わたしたちもそう思わなければならない。人の一生は、無駄にすごすには、あまりにも短い。永遠のために備えをすべき恵みの日は、ほんのわずかしかない。浪費したり、自己の快楽のために用いたり、罪にふけったりする時間はない。将来の永遠の命のために品性を形成するのは、今である。厳密な審判の時の備えをするのは、今である。

人類家族は、死ぬころになってから初めて、真に生き始めるようなものである。もし永遠の命に関する真の知識を得るのでないならば、この世の絶え間なき労苦も無に終わってしまう。働きをする時間として、時を尊重するものだけが、永遠の命とその住居とに入るにふさわしいものである。その人は、この世に生まれたかいがあったといえるのである。わたしたちは、今の時を生かして用いるように勧められている。しかし、無駄に過ごした時間は、永久に帰ってこない。一瞬間でも呼びもどすことはできない。ただ残っている時間を神の協力者となって神の大贖罪計画のために最善をつくすことによって、時をあがなうことができるだけである。

 こうする者は、品性が一変する。彼は、神の子となり、王族の一員、天の王子となるのである。また、天使たちの友となるのにふさわしい者とされるのである。

今こそ、同胞の救いのために働くべき時である。キリストの働きのために金銭をささげさえすれば、それで、すべての義務を果たしたように考えているものがいる。キリストのために個人的に奉仕をする貴重な時間の方は、一向に活用されていない。しかし、神のために活動的奉仕をすることが、健康と力をもったすべての者の特権であり義務である。すべての者は、魂をキリストに導くために働かなければならない。献金は、この代わりにはならないのである。

                (『キリストのたとえ話』より)

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