【初めての聖書】 第15課 最大の希望―キリストの再臨

再臨
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≪序≫ 

聖書の中にあるすばらしい真理の一つは、人間の救いを完成するためにキリストがもう一度地上においでになるという約束です。

「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」

(へブル人への手紙9章28節)。

このことをキリストの再臨といいます。

キリスト再臨の教えは、聖書の基本的なメッセージです。人類の祖先アダムとエバがエデンの園を悲しみのうちに去って以来、信仰を持った人々は、神の人間回復の計画が実現され、再びエデンの園が与えられる時を待望してきました。

キリストの十字架によって、救いの道が開かれ、キリストが昇天なさった時、それを見送った弟子たちに天の使いが

「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」

(使徒行伝1章11節)

と言いました。また来るというキリストの約束は、弟子たちの未来を明るく照らし、彼らの心を喜びと希望で満たし、どんな悲しみや試練の時にもその心を支えたのです。

1. 聖書の中の重要な教理

聖書の中で一番多く取りあつかわれている教理はキリストの再臨です。神学者のへンリー・シーセンは「新約聖書の中に300回以上すなわち25節に1回の割合でこの真理が語られている」と言いました。実際、再臨については他のどの教理よりも多く語られています。

今から約2000年前に起こったキリストの最初の降臨については、旧約聖書に300以上の預言がありましたが、それはみなそのとおりに成就(じょうじゅ)しました。また聖書のそれ以外の預言もほとんど成就(じょうじゅ)しています。残っているのは再臨に関係のある預言だけです。これらもやがて成就することは間違いないのです。

「神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか」

(民数記23章19節)。

再臨は決して人の作り話などではありません。

2. 再臨のとき何が起こるか

キリストの再臨の時に、人間の救いが完成します。人間は最初に創られた時のようになり、神との完全な交わりが回復するのです。これが再臨の目的です。

再臨の時、具体的に何が起こるかを調べてみましょう。

① 死人のよみがえり

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、ま最初によみがえり」

(テサロニケ人への第1の手紙4章16節)。

罪の結果としてはいってきた死は人間をおびやかしてきました。死の運命をのがれるために、不老長寿の薬をさがした人もありました。死の恐怖を解決しようとしてさまざまな哲学や宗教が求められました。医学も進歩しましたが人間がいつまでも生きることはできそうにありません。しかし本当に人間が死をのがれる道はないのでしょうか。ただ一つの希望は聖書が示しているキリスト再臨の日に、キリストを信じて眠っている人々が死からよみがえるという聖書の約束です。これは罪を赦され救われる人にとっては大きな喜びの日です。死によって別れていた愛する者に再び会うことができる日です。この時

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」

(コリント人への第1の手紙15章55節)

という勝利の叫びがあがります。そしてキリストがすでに復活なさったことは、私たちもキリストによって復活できるということを保証しているのです。

「ここで、あなたがたに奥義(おくぎ)を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちないものによみがえらされ」(コリント人への第1の手紙15章51節、52節)「それから終末となって、…最後の敵として滅されるのが、死である」(同24節、26節)。

② 生きている者の栄化

キリストを信じ、罪を赦された人で、再臨の時まで生きていた人々は死なないで、肉体はもはや朽ちることのない栄光の体に変えられます。これを栄化といいます。

「わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、…わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」

(コリント人への第1の手紙15章51節―53節)。

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自分に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」

(ピリピ人への手紙3章20節、21節)。

③ 天にあげられる

「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」

(テサロニケ人への第1の手紙4章13節―17節)。

死からよみがえり栄化された人々はキリストと共に天にあげられます。

「その時、目が見えない人の目は開かれ、聞こえない人は聞こえるようにされる。その時、歩けなかった人は、しかのように飛び走り、口がきけなかった人は喜び歌う」

(イザヤ書35章5節、6節)。

④ 報いが与えられる

キリストは

「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」

(マタイによる福音書16章27節)

と言われました。人の子というのはキリストのことです。再臨は報いが与えられる時です。この世の中では善人が損をしたり悪人が栄えているように見えることもありますが、神は人間のすべての行動と、その動機まで知っておいでになり、正しい報いをお与えになるのです。

初期の教会の有力な指導者であったパウロは

「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」

(テモテへの第2の手紙4章8節)

と言いました。

マタイによる福音書25章にキリストは、

「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、…王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。』…それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」

(マタイによる福音書25章31節―41節)。

罪を悔い改めた人々が天国に迎えられ、義の冠をいただく喜びに入ろうとしている時、神の恵みを最後まで受け入れなかった悪人たちは永遠の滅びにはいるのです。

ガラテヤ人への手紙6章7節に「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」とありますが、自由意志を与えられた人間は、自分のすべての行動について責任を問われる日があるのです。キリスト再臨の時すべての悪人は滅ぼされます。

3. 再臨の状態

キリストの再臨は間違いなくわかるように、聖書にはどんな状態で再臨があるかが、詳しく説明されています。

① すべての人に分かる

キリストの再臨はすべての人に関係のある人類歴史の大事件です。再臨を現実のこととしないで、これに抽象的な意味をつける人もありますが、再臨は他の預言と同じように歴史の現実となってあらわれる出来事です。そのため、すべての人が惑わされることのないようなはっきりした状態で起こるのです。

見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、…彼を仰ぎ見るであろう」(ヨハネの黙示録1章7節)。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書24章27節)。

キリスト誕生の時は、すべての人々に分かる状態ではありませんでした。しかし再臨は地球上のどこかの片すみで、人目につかないところで起こるのではありません。

キリスト再臨の前に、にせキリストが出て、できれば神を信じる人々もまどわそうとすることを警告なさったあとキリストは

だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな」

(マタイによる福音書24章26節)

と言われました。キリストはすでに再臨しておられるという人たちもいますが、それはほんとうのキリストではありません。

聖書は、「彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイによる福音書24章31節)。また、「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり」(テサロニケ人への第一の手紙4章16節)と述べています。

② 栄光の中に

「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来る」

(マタイによる福音書16章27節)。

「そのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」

(マタイによる福音書24章30節)

③ 自然界の変動

キリストの再臨に伴って自然界に大変動が起こります。

「天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった」

(ヨハネの黙示録6章14節)。

「…その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」

(ぺテロの第二の手紙3章10節)。

この自然界の大変動の中で、再臨を待望していた者は、キリストとお会いして

「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救いを喜び楽しもう」

(イザヤ25章9節)

と叫ぶのです。

信仰をもたず、悪を離れなかった人々について聖書は次のように述べています

「地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。そして、山と岩とにむかって言った、『さあ、われわれをおおって、御座(みざ)にいますかたの御顔(みかお)と子羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒(みいか)りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか』」

(ヨハネの黙示録6章15節―17節)。

④ 思いがけない時

キリストがいつおいでになるかについては

その日、その時は、だれも知らない。天の御使(みつか)たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」

(マタイによる福音書24章36節)

とあり、だれも知ることができません。しかしその時が近づいたことを示す前兆(ぜんちょう)を聖書は教えています。この前兆(ぜんちょう)についてはこの次の課で学びます。

私たちはその前兆(ぜんちょう)をみて用意をしていなければなりません。いつも用意していないと、思いがけない時にこの大事件にぶつかってあわててしまいます。

再臨のための用意は何でしょうか。それは罪を悔い改め、神に従う生活にはいることです。またこのことを知らない人に、これを伝えて再臨の準備ができるようにしてあげることです。

再臨を待ち望んで、このような準備をしていく人々は、神の前に,正しい生活をするようになります。地上に住んでいても天国にふさわしい生活をするようになるのです。

18世紀の英国でメソジスト運動を起こしたジョン・ウエスレーは「今日再臨があったらどうしますか」と質問された時、「私はいつもと変わらない生活をする」と答えたと言われています。それは彼がいつ再臨があってもいいように準備していたからそう言えたのです。

「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」

(マタイによる福音書24章44節)。

≪希望の言葉≫

地がよろめき、いなずまがひらめき、雷がとどろく真っただ中で、神のみ子の声が、眠っている聖徒たちを呼び起こす。イエスは義人たちの墓をごらんになり、それから両手を天のほうへ上げて、「目ざめよ、目ざめよ、目ざめよ。ちりの中に眠る者たちよ、起きよ」と呼ばれる。地の全面にわたって、死者はその声を聞き、聞く者は生きる。そして、全地に、あらゆる国民、部族、国語、民族からなる大群の足音が鳴り響く。「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と叫びながら、彼らは死の獄屋から、不死の栄光をまとって現われる(Ⅰコリント 15:5 5 )。そして、生きていた聖徒たちとよみがえった聖徒たちとはともに声をあわせて、勝利の長い喜びの叫びをあげる。

どの人もみな、墓に入った時と同じ身長で墓から現われる。よみがえった群衆の中に立っているアダムは、背が高く堂々たる容姿で、神のみ子より少し低いだけである。彼は後世の人々とは、著しい対照を示している。この点からでも、人類の大きな退化がわかる。しかし、どの人もみな、永遠の若さの新鮮さと活力にあふれてよみがえる。世の初めに、人は、品性だけでなく、容貌や姿も神のみかたちにかたどって創造された。罪のために神のかたちはそこなわれ、ほとんど消えてしまったが、キリストは、その失われたものを回復するためにこられた。キリストは、わたしたちの卑しい体を造り変えて、ご自身の栄光の体に似たものとしてくださる。一度罪に汚されてしまって美を失い、死ぬべき、朽ち果てるべきものとなった体が、完全な、美しい、不死のものとなる。すべての傷や醜さは、墓の中に残される。贖われた者は、長い間失われていたエデンのいのちの木に再び近づくことを許され、最初の栄光に輝く人類の完全な背丈に「成長する」のである(マラキ 4:2・英語訳)。罪ののろいの最後の痕跡が取り除かれ、キリストに忠実に仕える者たちは、知的にも、霊的にも、身体的にも、主の完全な姿を反映して、「われらの神、主のうるわしさ」を着て現われる。ああ、なんというすばらしい贖(あがな)いであろう。これこそ長い間、語り、熱望し、熱心な期待をもって瞑想してきたが、しかし決して十分には理解できなかったことであった。

             (キリストと反キリストの争闘史より)

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