【初めての聖書】第8課 救いの計画

初めての聖書
この記事は約11分で読めます。

序・人間と自由意志

聖書に「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)とあるように、最初の人アダムとエバの罪の結果人間は死ぬものとなりました。そしてアダムとエバの子孫も、同じ道を歩みました。こうして死は人類共通の運命となったのです。

神は死に定められた人間が、再び生きることができるために、救いの計画を立てて下さいました。この計画は人間が創られる前に立てられていたのです。というのは神が人間を自由な意志を持つものとしてお創りになった時、罪の可能性を予知されたのです。神は人間が罪を犯すことができないようにお創りになればよかったのではないかという人があります。もちろん神はそうすることもおできになりました。しかしそうなると人間は機械と同じになってしまいます。ロボットはどんなに立派なことをしても、道徳的な価値はありません。神は人間が自発的に神と人を愛し、神に従う道を選ぶことをお望みになったのです。

罪とは何か

「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」(ヨハネの第一の手紙3章4節)。不法というのは律法を犯すということですが、この律法とは神の愛の命令で、その内容は5課と6課で学んだ十戒です。

多くの人は自分が罪人であるとは思っていません。それは国家の法律や自分の考えを基準にして考えるからです。しかし神の高い道徳の標準である十戒に照らしてみると、人間はみな罪を犯した罪人なのです。人は行動ばかりでなく、思いや言葉においても、神の愛の戒めに意識的に故意に背く罪人です。

「義人はいない、ひとりもいない。・・・・善を行う者はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙3章10、12節)。「人は罪を犯さない者はないのです」(列王紀上8章46節)、「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」(伝道の書7章20節)。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない」(ヨハネの第一の手紙1章8節)。

罪は私たちが意識していなくても、生活を暗くし、人間関係にもいろいろな問題を起こし、病気の原因になったりします。

すべての人は罪を犯した

品性の汚れ

罪を犯す前に人間は清く、神と交わることを喜びとしていました。しかし罪を犯した人間について聖書には、

「われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」

(イザヤ書64章6節)

とあり、すべての人間の行為は罪によって汚れています。たとえ私たちが正しい行いをしたと思っても、もしそれを誇りに思ったり、人と比較して倣慢(ごうまん)になったりすれば、神の前には汚れたものとなるのです。そこで神は

「あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ」

(イザヤ書1章16節)

るようすすめておられます。

心の病気

キリストは

「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」

(ルカによる福音書5章31、32節)

と言われました。罪はいわば心の病気です。罪は人間が神のことを悟ることができないようにします。イザヤはそのような状態を「この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている」(マタイによる福音書13章15節)と言いました。

罪に支配される

イエスは彼らに答えられた、『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である』」(ヨハネによる福音書8章34節)。「おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである」(ぺテロの第二の手紙2章19節)。

罪に負けた人間は、罪の力に支配されています。自分の力でこの罪の支配からのがれることはできません。罪は私たちを支配する力となっているのです。

罪の法則の中にいる

「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る」(ローマ人への手紙7章18‐20節、22,23節)。

ここで人間は、心のうちにある悪への傾向に打ち勝つ力がなく、望まないのに悪を選び行ってしまうみじめな存在としてとらえられています。「わかっているけどやめられない」という現実をあなたも経験されたことはないでしょうか。しかしこの状態から私たちを救いだす計画が、すでに立てられていたのです。

救いの計画

神の律法を犯して死に定められた人間を、いかにして救うかはむずかしい問題でした。律法を変更するか、なくしてしまうことができれば、刑罰としての死もなくなりますが、神の律法は神の性質の反映であり、宇宙の精神的秩序の土台ですから、これを変えることはできません。そこで人間を救うためには、だれかが人間の代わりに死んでその刑罰を受けなければなりませんでした。大きな借金をして、支払うことができず裁判にかけられた時、もし金持ちの友だちがいて、その人の代わりに借金を払ってくれれば、罰をのがれることができるように、罪を犯した人間の代わりに、だれかがその刑罰である死を受けてくれれば、人間は救われるのです。

しかし人間の代わりになって、神の律法の要求する死という刑罰を受けることができるのは、神と等しい方でなければなりません。なぜなら神の律法は、神と同様に神聖なものであり、また人間の身代わりになることができるのは全く罪のない方でなければならないからです。聖書の中で、神と呼ばれているのは、父なる神、子なる神、聖霊の神です。これらの神はそれぞれ人格を持ち、全く一つの目的を持って、完全に調和してこの宇宙を支配し、働いておられます。第3課で創造の神について学びましたが、創世記1章に出ている神という言葉は複数形が使われていて、父なる神、子なる神、聖霊の神が協力して一つの人格のように活動して、創造のわざが行われたことが分かります。そして、神の創造ということが信じられるなら、あなたの罪に満ちた性質も新しく再創造されるという希望を持つことができるようになるのです。

神の救いの計画は子なる神が人間の代わりに死ぬことによって、人間を死から救うというものでした。この計画は、父なる神にとっても、子なる神にとっても大きな犠牲でした。全宇宙の支配者が、地球という全宇宙にくらべれば、チリよりも小さい世界に住む人間のために、地上にくだって、死という刑罰をお受けになるということは、考えることもできないことでした。

しかし愛はいかなる犠牲をもいとわないのです。ヨハネによる福音書3章16節はその愛を次のように語っています。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

神はこの救いの計画をアダムにお告げになりました。その後、時がたつにつれて、そのくわしい内容を、預言者を通して次々にお示しになりました。旧約聖書を学ぶとそのことがわかります。

この計画によれば子なる神は人のかたちをとって、人の間に住み、人間の身代わりとして死なれるはずでした。イザヤ書53章にその預言があります。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(4-6節)

神の子が地上においでになる時については、ダ二エル書にくわしく預言されていました。そこに、救い主は紀元27年に公の働きを始め、3年半の後、人間の身代わりとして生命をお与えになることが預言されていたのです(ダニエル書9章25-27節)。

また神の子が誕生される場所についても、

「しかしベツレへムエフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」

(ミカ書5章2節)

と告げられていました。そのほか旧約聖書に、この救い主、神の子について、多くの預言が与えられ、救い主はユダヤ人からでることも預言されていたので、救い主の出現はユダヤ人の民族的待望となっていました。

そして預言の時が満ちた時、ユダヤのベツレへムに降誕なさったのがイエス・キリストでした。

イエス・キリストについては第9課、第10課で研究しますが、彼は救い主と言われているように、人間救済の計画における中心です。キリストはすぐれた宗教家であると考えている人もいますが、それだけでなく、神の子であったのです。このことについては次の課を読んでいただきたいと思います。

このようにして救いの道が開かれました。人間に希望が与えられたのです。

神の救いの計画は完全なものです。人間を死より解放し永遠の生命を与えるだけでなく、罪によって変化したすべての状態を、はじめの状態に回復して下さいます。罪におちいって、悪への傾向を持つようになった人間も、はじめ創造された時のようになって、無限の成長を約束されます。罪によって汚染された自然界も再び創り変えられ、はじめの状態に回復します。人間は神との最初の関係にかえり、愛と平和の中にいつも喜びと希望のある生活にはいります。創造者である神は、再び人をきよいものと創造なさることができるのです。

アブラハムの信仰

創世記22章にユダヤ人の祖先アブラハムについての非常に劇的な経験が記されています。聖書をお持ちの方は全部読んでいただきたいと思いますが、これはアブラハムの信仰の試練でした。アブラハムには晩年になって奇跡的に与えられた一人息子イサクがいました。イサクは神の特別な祝福を受け、その子孫を通して神の救いの計画が実現される約束が与えられていました。

ところがある日アブラハムは、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて・・・・彼を燔祭としてささげなさい」(創世記22章2節)という命令を神より受けました。燔祭というのは、牛や羊を殺して神にささげていたのですが、この時神はイサクをささげよといわれたのです。神の律法は、「あなたは殺してはならない」と命じています。アブラハムには神の命令の意味がわかりませんでした。また一人息子を殺すことは、親の気持ちとしてはできないことでした。間違いではないかとも思ってみましたが、神の声は明らかでした。彼はついに決心して行動に移しました。イサクをつれて燔祭をささげるために指定された場所に出発したのです。それはモリヤという山でした。

たきぎをイサクが背負い、父は刃物と火をもって山をのぼりはじめた時、イサクは「父よ、・・・・火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」とたずねました。この言葉は父の心をするどく刺しました。アブラハムは「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えました。

いよいよ山頂についてアブラハムは震える声で、神の命令を伝えました。イサクはこれを聞いて驚き、また恐れました。しかしイサクは父を信頼していました。また神の言葉に服従することを幼い時から学んでいたので、すぐ自分の生命を神にささげる決心をしました。そしてすでに老齢に達していた父の弱々しい手を助けて、綱で自分を祭壇にしばりつけたのです。  

いよいよ最後の言葉が語られ、最後の抱擁が終わって、父が刃物をふりあげた時、突然彼の手はとどめられました。天から、

「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」

という声が聞こえました。アブラハムが横をみると一頭の雄羊が角をやぶにかけているのを発見し、これをとって神にささげました。彼は喜びと感謝にあふれて、その場所をアドナイ・エレ(主は備えられる)と名づけました。アブラハムは、神のすべての要求は公正で間違いのないものであることを信じて文字どおり従いました。神はそのような信仰をお喜びになるのです。アブラハムはこの経験を通して、神がそのひとり子を人間のために死に渡されることが、何を意味するかを知りました。

「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」

(ローマ人への手紙8章32節)。

神の子を人間にお与えになったことは、神の無限の愛とあわれみの証拠です。

希望の言葉

アブラハムは神につぶやかず、主の恵みとまことの証拠を考えて心を強くした。このむすこは、予期しないのに与えられた。尊い賜物を与えたかたは、ご自分の与えたものを取りもどす権を持たれないであろうか。すると信仰は、約束をくりかえす。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。彼らは海辺の砂のように無数になる。イサクは奇跡の子であった。であるから、彼に生命を与えた方は、復活させる力があるのではないか。アブラハムは、目に見えるもののかなたをながめて、「神が死人の中から人をよみがえらせる力がある」と神の言葉を理解した(ヘブル 11:19)。・・・アブラハムの大きな信仰の行いは、光の柱のように、その後のすべての時代の神のしもべたちの道を照らしている。アブラハムは、神のみこころを行うことを免除されるようには求めなかった。彼は、3日の旅の間いろいろと考え、疑おうと思えば神を疑うこともできた。むすこを殺すことは、彼が殺人者、第2のカインと見なされることになるという理由を考えることもできた。それは、また、人々が彼の教えを拒否し、軽べつする原因になり、そうすることによって、同胞に対して善を行う力をそこなうとも考えられた。彼は、老齢を理由に服従を免れることを求めることができた。しかし、アブラハムは、どのいいわけもしなかった。アブラハムは人間であった。彼は、われわれと同じ情と愛情の人であった。しかし、彼は、イサクが殺されたならどのようにして約束が成就されるのかをたずねようとしなかった。彼は、自分の心の痛みを考えなかった。彼は、神のすべての要求が公正で義であることを知っていて文字通りにその命令に服従した。「『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた。』・・・・そして、彼は『神の友』と唱えられたのである」(ヤコブ 2:23)。「信仰による者こそアブラハムの子である」とパウロは言っている(ガラテヤ 3:7)。しかし、アブラハムの信仰は行為にあらわされた。「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」る(ヤコブ 2:21,22)。(『人類のあけぼの』より)

タイトルとURLをコピーしました