【初めての聖書】 第35課 教会の礼典

初めての聖書
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≪ 序 ≫ 

旧約時代には聖所に関するいろいろな儀式や礼典がありました。それは贖罪の計画を説明する実物教訓でしたが、キリストの十字架が実現したあと、新約時代の教会に与えられている礼典はバプテスマ式と洗足・聖さん式です。この課ではこれらの礼典について、その意味を説明したいと思います。

これらの礼典はみなキリストが命じられたもので、罪を悔い改めて神に従う者の経験を表わしています。私たちの内的経験のあかしでもあり、またこれらの礼典にあずかることによって、さらに内的経験を深めることができます

バプテスマ式は、罪を悔い改めて教会に加わるときに全身を水に浸す儀式です。キリストも罪人のふむべき道として、バプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマをお受けになりました。

洗足式は謙そんと奉仕を教える礼典です。聖さん式は、キリストの十字架を記念する式で、洗足式と共にキリストがお定めになったものです。

1. バプテスマ

キリストは復活なさったあと弟子たちに、

「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイによる福音書28章19節、20節)

とお命じになりました。

バプテスマは教会に入るときに行われる式です。

① キリストのバプテスマ

マタイによる福音書3章13節から17節までに次の記録があります。

「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか』。しかし、イエスは答えて言われた、『今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである』。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。」

キリストは罪のない方でした。従って後に述べるように、バプテスマをお受けになる必要はありませんでした。そこでバプテスマのヨハネはこれをとどめようとしましたがキリストは、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」といわれました。キリストは私たちの模範として、私たちの当然とるべき道をお示しになったのです。

② バプテスマの意昧

パウロはローマ人への手紙6章3節から11節までにバプテスマの意味を説明しています。

「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。

なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。

バプテスマの式には「キリストの死と葬りとよみがえり」とが示されています。そして、バプテスマを受けることは、キリストを信じた者が象徴的な意味で、キリストと共に「死に、葬られ、かつよみがえらせられる」ことを表すのです。

すなわち、これを受ける者は、救い主が自分の罪のために死んでくださったことを信じて、過去のいっさいの罪をゆるされ、すべての汚れから洗い清められます。そればかりでなく、主と共に水の墓場に葬られることにより、罪と世俗に大して死んだ者、今後は二度と罪に仕えない者になったことを言い表わします。そして水から上がるとき、彼はキリストと共に生まれ変わった新しい人として出てくるのです。

このように、バプテスマは罪人が罪に死んで葬られ、同時に生まれ変わって新しい人になったことを、神と人とに公表する意義をもっています。

③ バプテスマの形式

聖書に「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。…すべてのものの父なる神は一つである」(エぺソ人への手紙4章5節、6節)とありますから、バプテスマの正しい形式は一つしかないことがうかがわれます。

今日の教会で、主として行われているバプテスマの形式は二つあり、全身を水に浸すものと頭に水を注ぐことです。聖書の記録によると、

「ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた」

(ヨハネによる福音書3章23節)

とあります。ヨハネがさずけたバプテスマには、たくさんの水が必要でした。数滴の水を頭に注ぐだけならば、多くの水はいらないはずですから、ヨハネは全身を水に浸すバプテスマをほどこしていたことがわかります。また、「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた」(マタイによる福音書3章16節)とあり、キリストはヨルダン川で全身を水に浸すバプテスマをお受けになったのです。これが正しいバプテスマの形式です。頭に水を注ぐだけでは、葬りの意味をよくあらわすことはできません。

④ バプテスマを受ける資格

a ) キリストの教えを学んだ者

「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイによる福音書28章20節)とありますから、バプテスマを希望する者は、聖書の根本的な教理を学んでいなければなりません。

b ) 福音を信じた者、すなわちキリストを自分の救い主として信じた者。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書16章15節、16節)と言われています。

c ) 罪を悔い改めて罪から離れた者

「するとペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう』」

(使徒行伝2章38節)。

バプテスマを受けるにはまず犯した罪を認識し、罪のために悲しみ、その罪を告白し、その罪から離れなければなりません。また神にざんげするばかりでなく、もしも迷惑をかけた人があるならば、その人に直接罪の許しを請わねばなりません。このように、キリストの教理を知り、キリストの救いを信じ、罪を悔い改めることが自分でできる年令に達した者が決心し志望する時に、はじめてバプテスマはさずけられるものです。 

ところが罪の認識もない幼児や、生まれたばかりの赤ん坊にバプテスマを施す教会がありますが、これは古代の偶像教の儀式をキリストの死後数百年もたつたころに教会が採用したもので、聖書の教えに反することは、先に引用した聖句によって明らかです。バプテスマを受けない前に死んだ赤ん坊は、天国に行かれないというのは誤っています。

バプテスマについて陥りやすい誤りは、十分に真理を知らないで早く受けようとすることと、完全な品性に達するまで待とうとすることです。多くの人がバプテスマを受けたあと再び罪を犯しはしないかと不安を感じます。しかし神は私たちの弱さを知り、必要な力を与えて下さいます。またもし再び罪をおかしても、悔い改めて神にかえるならば、ゆるして下さいます。

あなたはここまで聖書を研究なさいましたから、バプテスマを受けて、永遠の生命にはいる準備をなさるようにおすすめ致します。

⑤ バプテスマを受けた後のクリスチャン生活

バプテスマは生まれ変わりの経験ですから、これを受けた後の生活は当然、受ける前とは違ってこなければなりません。古い人は死んで、新しい者になるはずです。

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」

(コロサイ人への手紙2章12節、13節)

と言われています。また、

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。…互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるか’ら、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」

(コロサイ人への手紙3章1節、2節、9節、10節、12節―14節)

とあります。

バプテスマを受けてクリスチャンとなった人は、お互いに愛をもって、キリストの弟子としてふさわしい生活にはいります。そしてこれは神の助けによってできるのです。祈りと聖書研究、礼拝に忠実に出席すること及びキリストから受けた恵みをつねに他の人にわけ与えることは、クリスチャン生活を続けていく上に欠くことのできないものです。

2. 洗足・聖さん式

① 洗足式

洗足式はキリストを信じる者が、お互いに足を洗う式で、聖さん式の前に行います。この儀式制定の由来は、ヨハネによる福音書13章1節から17節にでています。このときキリストの弟子たちの間には、自分たちの中でだれがいちばん偉いかという争いが起こっていました。彼らが最後の晩さんをするため部屋にはいったとき、ユダヤの習慣であった足を洗うしもべがいませんでした。しかし弟子たちはだれも人の足を洗おうとはしなかったのです。そこでキリストは自ら彼らの足をお洗いになりました。このことによってキリストは謙そんと無我の奉仕を教えられたのです。また彼らの心のけがれを洗いきよめようとなさったのです。キリストは「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」(ヨハネによる福音書13章15節)と言われました。私たちも今日この式にあずかるとき、謙そんと奉仕の教訓を学び、キリストの模範にしたがって生活する決心を新たにするのです。またこの式はバプテスマのあとおかした罪のきよめを意味しています。

② 聖さん式

これはキリストが人の罪をあがなうために死なれたことを記念する礼典です。パンとブドウ液をいただきますが、これは罪人のために裂かれたキリストの体と流された血を意味するものです

パウロはコリント人への第1の手紙11章23節より26節までに次のように書きました。

「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」

キリストの体を象徴するパンをいただくことは、キリストの死を記念すると同時に、私たちがキリストと一つになることを意味しています。全くキリストと共になって、キリストと共に歩む決心をあらわすのです。しかし自分の決心だけではこのことはできません。神の力が必要です。聖書の中で血は生命をあらわしています。キリストの血はキリストの生命です。信仰をもってキリストを受け入れるときその生命を受け、私たちがキリストと共に歩むことができる力が与えられるのです。

またこの儀式はキリストの死を記念するばかりではなく「それによって、主がこられる時に至るまで」といわれているように、キリストの再臨に対する待望をもあらわすものです。

≪ 希望の言葉 ≫

ヨルダン川で、イエスに「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われたことばは、全人類を含んでいる(マタイ 3:17)。神はわれわれの代表者としてのイエスに語られた。どんなに罪や欠点をもっていても、われわれは無価値なものとして捨てられることはない。「神は愛するみ子によってわたしたちを受け入れてくださった」(エペソ 1:6・英語訳聖書)。キリストの上にくだった栄光は、われわれに対する神の愛の保証である。それは祈りの力について、すなわち人間の声が神の御耳にとどくことと、われわれの祈願が天の宮廷に受け入れられることとを告げている。罪によって、地は天から切り離され、天との交わりから遠ざけられた。だがイエスは地をもう一度栄光の天と結びつけられた。イエスの愛は人類をとりまき、最高の天に達した。開かれた門から救い主の頭上にさした光が、試みに抵抗するために助けを祈るとき、われわれの上にさすのである。イエスに語られたみ声が、信じている1人1人にむかって「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われるのである。

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(Ⅰヨハネ 3:2)。

われらのあがない主が道をお開きになったので、どんなに罪深い者も、どんなに困っている者も、またどんなにしいたげられ、あなどられている者も、天父に近づくことができる。だれでもみな、イエスが備えに行かれた住居をわが家とすることができる。「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。・・・・・・見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」(黙示録3:7、8)。

                   (『キリストの偉大な生涯』より)

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