【初めての聖書】 第18課 悪の起源―善と悪の大争闘

初めての聖書
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≪序≫ 

神がおつくりになったこの世界にどうして悪があるのかということは多くの人が不思議に思うことです。その悪は今やこの世界にはびこり、人類の滅亡につながるのではないかという危機感を与えています。

しかし聖書は悪がどのようにこの世界にはいってきたのか、その悪はどのように発展して現在のような状態になったかを説明し、善と悪との争闘という視点から人類の歴史を解明しています。

一般には人間の歴史は国家間の力のバランスや、政治の指導者や経済関係によって動いているように考える人が多いのですが、英国の著名な歴史家アーノルド・トインビーは、「政治と戦争は、私たち人間の活動の最も重要なものでもないし、最も特徴的なものでもありません。経済や技術もそうです。人間の重要な活動は、文化と宗教です」と言いました。

宗教を視点にした歴史の見方は、決して偏ったものではありません。この世界は神が支配しておいでになり、それに対抗する悪の勢力があることを考えるとき、善と悪との争闘が、歴史の中の重要な要素となるのは当然のことといえます。

1. 罪を犯した天使

はじめに罪を犯したのは天使のかしらでした。ここに悪の起源があるのです。悪の起源を知ることによって、罪の性質やその影響などについてよく理解することができ、また神の救いの計画の意味と目的を知ることができ、個人的な救い主の必要を認めることができるようになります。

聖書の中に罪の起源と、最初に罪を犯した存在について知ることができる聖句は二か所あります。エゼキエル書の聖句は、最初に罪を犯したものの性質や立場を示し、イザヤ書の聖句は、神に反逆するようになった動機や経過を説明しています。

エゼキエル書28章12節に「ツロの王のために悲しみの歌をのベて、これに言え」とあります。これは古代フェニキヤの重要な港町であったツロの王に対する言葉のようですが、実際はツロの王を動かしていた悪魔についての言葉です。

あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。あなたは神の園エデンにあって、わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブ〔天使の呼び名=著者注〕と一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。15節 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。

このような言葉は、人間の王にあてはめることはできません。

この17節と同じような言葉が、イザヤ書14章にもでています。

「あなたは、さきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』」(13節、14節)。

そしてその結果として「しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる」(15節)とあります。このイザヤ書の言葉は12節をみると「黎明(れいめい)の子(英訳ルシファー)、明けの明星よ」と呼ばれていて、この2つの聖句から、これは天使のかしらすなわちルシファーをさしていることがわかります。イザヤ書の14章4節をみると、これらの言葉はバビロンの王に呼びかけられていますが、これもバビロン王では説明ができません。

それならなぜ預言者が、当時の地上の王に呼びかけたかというと、この王たちは堕落した天使ルシファーに従い、神に反逆していたからです。つまり悪魔(サタン)に動かされていたのです。そこで預言者はこの王たちの名を使って、彼らを支配している悪魔の姿を暴露し、悪の起源とその性質を明らかにしたのです。

それをまとめると次のようになります。

① ルシファーの性質と立場

ルシファーは神に創られたもので(エゼキエル書28章15節)すばらしい能力を与えられていました。知恵と美のきわみであり、完全なものでした。彼は天使のかしらでした。

② ルシファーの罪

天使は自由意志を与えられていて、神に従うことも、神に反逆することもできました。そのすばらしい能力を与えられていた天使のかしらルシファーの心に誇りが起きてきました。それはキリストに対するねたみとなり、ついに自分の立場に満足しないで、神の位にまで上がろうとしたのです。今まで愛と奉仕の精神に満ちていた天の調和は破れました。誇りはねたみに変わり、そしてついに神に仕えるかわりに、自己を神としようとしたことが、罪のはじめとなったのです。

③ 天における戦い

ルシファーの神に対する反逆についてヨハネの黙示録は、

「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された」(12章7節―9節)

と記しています。

ミカエルというのは悪魔と戦う時のキリストの別の呼び名で、龍とは天使のかしらであった堕落した悪魔の姿です。悪魔は天で神に対する反逆を続けることができなくなり、地上にきてエデンの園で幸福な生活をしていた人間を、へびを通して誘惑し、罪を犯させたのです。

それ以来、悪魔と悪天使たちは、たえず人間を誘惑して悪におとしいれるために活動しています。また人間が真理を認めず、あやまりを信じるように働いているのです。

今日悪魔の巧妙な誘惑にまけて、罪のとりことなっている人がたくさんいます。悪魔は、俗悪な映画や読み物、インターネット情報、娯楽、とばく、麻薬、暴力、性の解放などを利用して人々をわなにおとしいれているのです

またサタンは人の間に不和をおこし、ねたみを刺激し、人の弱点に乗じて罪を犯させようとして働いています。しかしサタンの導くところは死の道で平安がないのです。

聖書は「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」

(ぺテロの第1の手紙5章8節、9節)

とすすめています。

悪魔というのは単なる悪い影響力や感化力ではありません。実在している霊的な存在であることを知り、悪魔の働きを警戒しなければなりません。悪魔と悪天使はあらゆるところにはいりこんで、人間を不幸におとしいれ、神より引き離そうとしているのです。

④ 悪魔と悪天使の最後

多くの人は、天使のかしらルシファーが最初に罪を犯した時、なぜ神は直ちに彼を滅ぼされなかったかという疑問を持ちます。その時ルシファーが滅ぼされていれば、今日のように罪が広がらなかったのではないかと考えるのです。これはもっともな考えですが、重要な一面が見過ごされています。

というのはルシファーがはじめ罪を犯した時、その罪がどのような結果をもたらすかは、天使たちや、神が創造された他世界の住民たちにも分かっていませんでした。彼らは罪のほんとうの性質を知らなかったのです。そのような状況で、もし神がルシファーを滅ぼされたとすれば、彼らはそのあと神に従ったとしても、恐怖感から従うことになったでしょう。神はそのような服従をお喜びになりません。そこで神は罪がどんなに恐ろしいものであるかが分かるまで、悪魔をそのままにしておかれたのです。

今日の社会を見るならだれでも罪がどんなに恐ろしいものであるかよくわかります。

神はやがて悪魔と悪天使を、他の悔い改めなかった罪人と共に滅ぼされます。光と闇が両立できないように、神の支配なさる世界には、神の性質に反逆するねたみや憎しみ、その他すべての罪はいつまでも存在することはできないのです。「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録20章10節)という言葉は天に始まったこの戦いの結末を示しています。

2. 善と悪との大争闘

① 人の心の中の戦い

ルシファーは神の律法にさからって罪の道を歩み、キリストと戦ったことがヨハネの黙示録12章に書いてあります。この天ではじまった戦いは、ルシファーが悪魔と呼ばれ、地に落とされたあとも継続して今日に至っています。この戦いは、地上から罪が完全に消滅し、悪魔と悪天使が滅ぼされるまで続きます。

エデンの園でエバを誘惑して以来、世の終わりまで悪魔は人の心に働いて神に反抗するように誘惑し、キリストに従っている人々を迫害するのです。ヨハネの黙示録12章には「年を経たへび」と呼ばれ、老巧(ろうこう)な方法で働き、人間の力だけではこれに対抗することはできません。

神の側に立つものは必ず悪魔の攻撃にさらされるのです。しかし全能の神に頼っていれば、勝利をすることができます。

初期の教会の指導者であったパウロは、

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」

(エぺソ人への手紙6章10節―12節)

とすすめています。

神の武具で身を固めるというのは、聖書の真理を正しく理解して体験し、祈りによって疑いやつぶやき批判の心を捨て、聖書のみ言葉通りに歩んでいくことです。キリストに頼り、その力をいただけば、悪魔と悪天使の誘惑や攻撃に勝利することができるのです

② 歴史の中の戦い

昔からサタンは神に従う人々を攻撃してきました。古代エジプトにおいて、神に従う人々は苦難を受けました(ネヘミヤ記9章9節)。アッシリヤでも(エレミヤ書50章17節)、バビロンでもそうでした(同上)。その後のメディア・ペルシヤにおいても、神を信じる民を滅ぼそうとしました(エステル記3章13節)。次に起こったギリシヤの時代にも神に従う民はフェニキヤ人やペリシテ人のために奴隷に売られ苦しみました(ヨエル書3章4節、6節)。サタンはこれらの国の背後にあって、その指導者を支配し、神に従う民を苦しめたのです。ローマ帝国でも同様なことが起こりました。この時は多神教を背景にした迫害で、数世紀間つづきました。数多くの者が円形劇場で、野獣の餌食になり、生きながら焼かれました。十字架にかけられた者もあれば、野獣の皮を着せられて闘技場に投げ込まれ犬や猛獣にかみ裂かれた者もありました。このような迫害にもかかわらずキリスト教徒は信仰をもってそれに耐えていきました。そして聖書を信じる人々はますますふえていったのです。

しかし紀元四世紀ごろから迫害はなくなりましたが教会に妥協の精神がはいり、聖書全体を神の言葉としては従わないようになったのです。そして六世紀にローマ法王権が確立し、聖書に堅く立つ人々に対する長年にわたる迫害がはじまり、中世紀の暗黒時代に数百万の人が殉教の死をとげたといわれています。なぜローマ法王権が聖書に忠実に従う人々を迫害したかは、第31課をごらん下さい。

サタンの敵意は、キリストと神の律法に向けられていますが、同時に神が愛しておいでになる神に従う人々にも向けられているのです。そこでサタンはいろいろな権力に働いて、聖書を信じ、神に従っている人々を迫害してきました。このことを中心に見ると、世界歴史の動きの本当の意味を知ることができます。この世界は政治的指導者や権力によって動いているようにみえますが、実際は人の心を通して働く善と悪との争闘が原因になっているのです。

この争闘はキリストとサタン、善天使と悪天使、キリストに従う者とサタンに従う者、真理と誤びゅう、善と悪などいろいろな形をとってあらわれてきました。

ルターによってはじめられた16世紀の宗教改革も、この大争闘の大きな頂点でした。近代にはいってからもいろいろな宗教運動の中にこの争闘がみられます。特にこの終末の時代には、サタンが自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって活動するのです。

現代は善と悪との大争闘が頂点に達する時で、私たちは毎日どちらかの陣営についているのです。いつも神の側に立ち、悪に勝利をしていくことが大切です。


≪希望の言葉≫

病気が体中に広まって生命を奪うのを防ぐためには、人は、右手であっても切り捨てるのである。まして、魂の生命を危険にさらすものを、進んで放棄するのは当然のことである。サタンに捕われ堕落していた魂は、福音によって贖われ、神の子らの輝かしい自由にあずかるはずである。神のみ旨は、罪の不可避の結果である苦しみから解放することだけではなく、罪そのものから救うことである。汚れてゆがんだ魂も変えられて清くなり、「われらの神、主の恵み」を身につけて、「御子のかたちに似たもの」となることができる(詩篇90:17、ローマ 8:29 )。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(Ⅰコリント 2:9 )。神のみかたちに回復された、人類の到達することのできる輝かしい運命は、永遠のみが明らかにすることができるのである。わたしたちが、この高い理想に達するためには、魂をつまずかせるものは犠牲にしなければならない。わたしたちが罪の支配下にあるのは、意志によるのである。この意志を服従させることが、目を抜き出したり、手を切りとったりするという表現で表されているのである。

 意志を神に従わせることは、人生を不具の体で過ごすかのように思えることがよくある。しかしこのようにして、命に入れるのであれば、体に傷をもち、不具となるほうがよいのだとキリストは言われる。不幸と見えることが、何よりの幸福への門口なのである。神は生命の泉であるから、わたしたちは神と交わっている時だけ、生命を持つことができる。神から離れても、しばらくは生存することができるが、そこには生命がない。

                 (キリストの山上の教えより)

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