【初めての聖書】 第36課 新しい生活

初めての聖書
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≪ 序 ≫ 

この聖書講座も最後の課となりました。これまで第1課から12課では聖書の解説からはじまって、聖書が取り扱っている最も基本的な問題を研究しました。それは神、人間、イエス・キリストによる救いなどでした。これらの研究を通して人間のほんとうの生き方を学びました。

第13課から24課ではさらに進んで人類の歴史の意味や世界の将来、死後の問題などを勉強し、クリスチャン生活の基本と実際にふれ、最後は教派の問題をとりあつかいました。

そして第25課から35課では神学上のかなり難しい問題も研究しました。特に「現代の使命」というヨハネの黙示録を中心にした部分は、今の時代に関係の深い重要な問題を提起していますから、今後もひき続いて研究なさって下さい。

聖書は今まであなたが御存知なかった新しい世界を示し、新たな生き方を教えたのではないでしょうか。

最後に聖書の考えを土台とした、希望と喜びのある生活について考えてみましょう。

1. ダビデの経験――詩篇第23篇

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

これは神を信じるクリスチャンの経験を描写した美しい詩です。ルターはこの羊飼いの詩を「小聖書」とよびました。この短篇の詩は読む人に深い感動を与えるので、小さい鳥ですが、美しい歌声で人の心を慰める夜鳴鴬(ナイチンゲール)にたとえて、「夜鳴鴬(ナイチンゲール)の詩」ともよばれています。

この詩を書いたダビデは、少年のころ羊飼いをして、牧羊者の苦しみや困難を深く味わい、羊に対する深い愛と犠牲を体験しました。彼は変化に富んだ青年時代をへて、イスラエルの王位につきました。この詩は神の霊感を受け、彼の生活と信仰の体験に裏づけられて書かれたものです。

聖書の中で詩篇の23篇がおかれている場所をみると、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」(詩篇22篇1節)という悲痛な叫びではじまっている「十字架の詩」と、

「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の主である」(詩篇24篇9節、10節)

という歓喜の声で終わっている「凱旋(がいせん)の詩」との間におかれています。

ここには緑の野と静かな水のほとりで草を食べる羊がえがかれています。これはクリスチャンの地上生活をあらわし、神に頼りきった完全な平安の姿です。生まれ変わったクリスチャンだけがこの経験に達することができ、栄光の国に導かれるのです。この詩の中に「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」(ピリピ人への手紙4章19節)という約束が完全に成就しているのを見ることができます。

2. わが牧者

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」というはじめの言葉は、ダビデの若い時代の経験でした。羊飼いは羊を愛し、命がけで羊を守ります。神はあなたの羊飼いです。羊飼いが羊を守るように、神はあなたを守って下さいます。

信仰は知識以上のもので、神の存在を認めるだけでなく、神を信頼し、すべてを神にまかせることです。キリストは、「わたしはよい羊飼である」(ヨハネによる福音書10章11節)と言われました。「よい羊飼」というのは能力のある羊飼いという意味です。羊が危険にさらされたときに守ることができる羊飼いです。この宇宙をお造りになった神は、全能で私たちのすべての必要を満たすことがおできになる方です。この神が私の牧者であることを認めるならば、私たちはどんなときにも安心です。欠乏を感じることはありません。

人生にはいろいろな悩みや困難があります。ダビデは若いとき、彼をねたむ者のために、その生命も安全ではありませんでした。しかし全能の神はダビデを守って下さいました。彼は神を主とあがめ、神に従い、おそれを感じ失望しそうになるときも、愛の神を思い出すことによって、勇気と希望を持つことができたのです。

全能の神を牧者とする信仰をもつ者には、乏しいことはなくなり、いつも満たされた生活をすることができます。人生の乏しさのうちいちばん私たちを悩ますのは、心の乏しさです。孤独で寂しい、心のよりどころがない、将来が不安であるといった乏しさ、あるいは愛を失って傷ついた心の乏しさなど、人間が経験するあらゆる心の乏しさを神は補って下さいます。

ダビデはまた

「主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない」

(詩篇34篇9節、10節)

と言いました。主を牧者とする者は、物質的な乏しさからも救われるのです。

キリストは山の上でなさった有名な説教の中で、次のような美しい力のある言葉を語られました。

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。

ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」

(マタイによる福音書6章25節―34節)。

3. みどりの野

「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」羊飼いに導かれて、青草の上でくつろいでいる羊の群れを想像して下さい。なんという平和な、満ち足りた情景でしょうか。これは神に導かれた生活の象徴です。

人間はこの世の生活で、自分の力の足りなさを感じるような場合にしばしば出会います。すべての宗教は、そのような必要を満たそうと努力していますが、全宇宙の支配者である神に頼るとき、完全な解決をみることができます。

疲れた羊を静かな緑の野に休ませなければならないように、人生の歩みにおいても、静かに休んで、新しい力を得る必要があります。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」

(マタイによる福音書11章28節)

とキリストは言われるのです。緑の野で休みと、豊かな食べ物が与えられ、人生の戦いに必要な力が供給されます。キリストのもとで休む者には、どのような試練にも耐えることのできる準備が与えられます。

パレスチナの地図を見ると、川や流れが多いのに気がつきます。しかし大部分の川は雨季にはどろ水がみなぎりますが、他の時期には水が枯れます。土地も水に乏しく、羊に水を与える適当な場所は多くありません。羊飼いは羊を青草のある所で養い、夕方になる前に水を与えなければならないのです。羊は足の弱い動物なので、羊飼いはよく地理を知っていなければ、その群れをよく養うことはできませんでした。

よい羊飼いであるキリストは、私たちの性質をよく知り、また人生の地理をくわしく知って、常にみどりの野、いこいのみぎわに導いて下さるのです。

4. 主はわたしの魂をいきかえらせ

世界的に有名な心理学者のユングはクリスチャンではありませんが、「過去30年間、私の所に助言を求めにきた人々の大部分は、宗教的信仰がないことが原因になっている精神病者であった」と言いました。近代生活は精神のバランスを奪いました。近代人は生活の中心を失っています。しかし神を発見するとき、人生の意義や目的が明らかになり、目標にむかって喜びに満たされた新しい生活をはじめることができます。

羊は時に盗まれたり、迷って群れから離れることがあります。羊飼いの保護を離れた羊は生きることができません。今日、精神的な迷える羊が多くいます。むなしい哲学や思想のとりことなって、自ら苦しみ、傷ついている人が少なくありません。しかしキリストはどんな人にでも力と希望を与え、魂を生かして下さいます。

5. 正しい道に導かれる

キリストに従う道は必ずしも平らな道ではないかも知れません。しかしそれは正しい道です。イスラエルの王であったソロモンは、「人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある」(箴言16章25節)といいました。将来に対して正しい判断と選択をすることは、たやすいことではありません。しかし神の言葉は私たちに正しい道を示します。

6. 死の陰の谷

「死の陰の谷」の経験がこの詩のはじめでなく、まん中にきていることは意味があります。食物と水を豊かに与えられ、休息を得、正しい道に導かれて、その後にきた経験です。クリスチャンは神より力を与えられ、いかなる道を歩むとも勇気をもって進む備えができるのです。「死の陰の谷」というのは、人生の最も暗い、危険な深い谷を象徴したものです。

人生には時々そのような死の谷を通らねばならないことが起こります。すべての人に必ずのぞむ「死の陰の谷」は死そのものです。若くて元気な時にはあまり真剣に考えていませんがこれに直面する時、死は真に厳粛で深刻な様相(ようそう)をおびて私たちに迫ってきます。時々経験する、友人や肉親の死は私たちに対する強い警告です。キリストは暗い死の谷を変えて明るい朝として下さいました。復活の希望は、私たちを死の恐怖より解放します。クリスチャンはどんな暗い経験の時にも、明るく落ち着いて歩むことができます。その理由は「あなたがわたしと共におられるからです」という、神との密接な交わりがあるからです。

7. むちとつえ

むちは野獣や盗人から羊を保護する武器であり、つえは羊を導き、時にはむちをあてる道具です。これは神の保護と導きを意味し、また神のお与えになるこらしめを暗示しています。「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(へブル人への手紙12章6節)。

8. もうけられた宴、そそがれる油

私たちを批判し悪口を言うような敵の前でも神は私たちを保護し、豊かな宴をもうけて下さいます。その宴というのは

「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした」(詩篇4:7)というものであり、「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」(エレミヤ15:16)

という、神の約束のみ言葉から来るものです。

また、羊飼いが羊のけがを油で手当てをするように、傷ついたとき、その傷をいやして下さいます。私たちが人に与えた傷であれ、自分が受けた傷であれ、キリストの十字架によって癒されない傷はありません。

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)。

この経験を私たちに与えてくださるのです。

最後に「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう」という確信が述べられ、「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」という永遠の国に対する希望が表されています。神の愛に対する確信と将来の限りない希望に生きることは、クリスチャンの幸福です。

三重苦の聖女といわれたへレン・ケラーは日本を訪れたとき、ある会合で「神を知らなかったら、私の生涯はほんとうに暗いものであったでしょう」と言って、詩篇23篇を暗唱しました。たとえ三重苦を背負っていても彼女は神と共に歩むことによって、明るい希望を持つことができたのです。

あなたも、神に頼り、キリストと共に生きることによって、ほんとうに幸福な人生を送られるように祈ります。

≪ 希望の言葉 ≫

この世の羊飼が自分の羊を知っているように、天の羊飼イエスは、世界じゅうにちらばっているご自分の羊の群れを知っておられる。「あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。イエスは「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。「わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ」と言われる(エゼキエル 34:31、イザヤ 43:1、49:16 )。イエスは、われわれを個人的に知っておられ、われわれの弱さを感じて心を動かされる。イエスはわれわれの名前をみな知っておられる。イエスはわれわれの住んでいる家を、またその家に住んでいる1人1人の名前を知っておられる。イエスは、時々、ご自分のしもべたちに、どこそこの町の何という通りのこれこれの家に行ってわたしの羊の1匹をさがしなさいと命じられた。

1人1人は、あたかも救い主がその者のためだけに死なれたかのように、よくイエスに知られている。1人1人の悲嘆はイエスの心を動かす。助けを求める叫びはイエスの耳に達する。イエスはすべての人をみもとに引きよせるためにおいでになった。イエスは彼らに、「わたしに従ってきなさい」とお命じになる。するとみたまが彼らの心に働いて、彼らがみもとにくるように引きよせる。多くの者は引きよせられるのをこばむ。イエスはそれがだれであるかをご存知である。イエスはまた、ご自分の呼び声をよろこんで聞いて、羊飼であられるイエスの守りに身をゆだねようとする者をご存知である。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」とイエスは言われる(ヨハネ 10:27)。イエスは、この地上にほかにだれもいないかのように、1人1人を気づかわれる。

               (『キリストの偉大な生涯』より)

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