【初めての聖書】第13課 聖書と私の人生

初めての聖書
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≪序≫ 

これまで聖書の中心になっている「人間はいかにして救われるか」という問題を中心に研究しましたが、これからは人間自体の問題をさらにくわしく研究すると共に、この世界の歴史にも目を向けてみたいと思います。

聖書は単なる知識を与える本ではありません。神から人間に与えられたメッセージ、すなわち神よりの手紙また使命なのです。メッセージですからそれをどのように受けとるかということが大切な問題となってきます。また聖書はメッセージであるとともに、服従を要求する神の言葉です。

キリストは「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」(ヨハネによる福音書7章17節)と言われました。すなわち聖書の意味を本当に理解するためには、聖書の教えに従うことが大切です。聖書を学ぶ私たちの心構えや態度が正しくなければ、せっかく学んでも、それが私たちの心を養い、生活を生かすものとはならないのです。

1. 種まきのたとえ

マタイによる福音書13章3節から9節までにキリストは種まきのたとえをお語りになりました。

「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞くがよい」。

このたとえ話は聖書を勉強する人の持つべき心の状態をよく説明しています。

このたとえの種まきというのはキリストのことで、種は神の言葉です。キリストは真理の種である神の言葉をまくために、地上においでになりました。種の中には植物の生命が宿っているように、神の言葉にも生命があります。土は人の心の状態を示していて、神の言葉である種が落ちたとき、それを受ける人の心の状態によって、神の言葉がその人の生活の中に実を結ぶこともあれば、実を結ぶことができない場合もあるのです。キリストはそれを4通りにわけてお語りになりました。

① 道ばた

第1は道ばたに落ちた種です。道ばたの土は人や車にふまれてかたくなっています。そこに落ちた種は土の中にはいっていくことができません。同じように固くなった心には、神の言葉はその中にはいることができません。人の心をかたくするものは何でしょうか。神の言葉を受けいれることができなくするものは何でしょうか。

まず生活の忙しさです。道路は車や人の交通で忙しく落ちつきがありません。それと同じように現代人の生活は忙しいので、心に落ちつきとゆとりがありません。道ばたは世の中の動きに心がとらわれて、静かに聖書を研究することができない心の状態です。このような人は、聖書の言葉を読んでもそれに十分注意を集中することができません。そして鳥がきて道ばたの種を食べてしまうように、聖書の言葉は何の印象も残さないまま失われてしまいます。

聖書を読むときは、神の助けを求めて祈り、神が聖書の言葉の中で私たちに伝えようとしておいでになるメッセージをよく考えて、神のみこころを悟ることが大切です。また聖書を受け入れるのをさまたげるような書物や、聖書の示している道に反するような娯楽によっても、私たちの心の感受性はにぶくなり真理の言葉を受けいれることができなくなります。

預言者イザヤは「この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている」(マタイによる福音書13章15節)と言いましたが、そのような心には神の言葉もその力を与えることはできません。

② 石地

次は石地です。そこは土がわずかしかなく、石がたくさんあるので、種が芽を出しても、深く根をおろすことができません。この石は自我の心です。自分が今までもっていた考えに固執すれば、神の言葉は私たちの心にはいることができません。

聖書の勉強が、ほかの勉強とちがう点は、たとえば歴史を勉強する時は、自分は客観的な立場で、知識を吸収すればよいのですが、聖書を学ぶ時は、もちろんこれと同じような学び方をすることもできますが、それでは聖書の知識を得たというだけで、人生の助けにはならないのです。世界的に有名な伝道者であったスタンレー・ジョーンズ博士が日本にきた時、日本にはキリストを信じないで神学を論じている人がいると言いましたが、このような人はキリスト教の真髄にふれることはできません。聖書を学ぶ時、そこに示されている教えに一つ一つ従っていけば、私たちの生活が変わり、聖書の真実性を体験することができるのです。そのような体験を土台として私たちは聖書が真実の言葉であることをだんだん深く悟ることができます。もし私たちがいつまでも自分の立場や考えに固執しているなら、石地に落ちた種のように、たとえ芽は出ても花が咲き実を結ぶという経験を得ることはできないのです。そこで聖書を学ぶ時は、真理に対しておさな子のような素直さが必要です。

キリストは

「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」

(マタイによる福音書9章17節)

と言われました。

新しいぶどう酒は発酵して膨張します。皮袋は古くなると弾力性を失ってひからびてしまいます。そんな古い袋に新しいぶどう酒を入れることはできません。ぶどう酒が膨張して、皮袋は張り裂けてしまうからです。これと同じように、キリストの教えは、罪の中にいる人間の生活に革命を起こす教えで、聖書は人間に全く新しい生き方を教えています。それを受けとめるには、柔軟な弾力性のある心が必要です。ひからびてかたくなった皮袋のような、人間の固定観念を打破しなければ、キリストの教えを受けいれることはできないのです。

やわらかな心をもって霊書の言葉を受けいれるなら、あなたの生活は充実し、生き生きしたものとなるのです。自己の固定観念を捨てて、素直に従うことによって、聖書の教えを本当に悟り、生活が変わることを経験することができます。

③ いばらの地

第3はいばらの地ですが、いばらがおおいかぶさって、種の生長をさまたげるように、聖書の言葉が、私たちの心の中に成長していくのをさまたげるいばらがあります。キリストが指摘なさった、心のいばらについて、聖書の記者ルカは生活の心づかいや富や快楽」をあげており、またマルコは「世の心づかいと富の惑わし、その他いろいろな欲」をあげています。私たちは大なり小なりこのようないばらを持っています。

この世の中に生活している以上、日々のパンのことも考えなければなりません。少子高齢化社会の中で家を持つためにはどうしたらよいか、また老後はどうするかという問題も心にかかるでしょう。しかしそのような心づかいを解決するために忙しく動きまわる前に、まず神の言葉を熱心に求めるならば、日常生活の問題も解決していくことができるのです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」

マタイによる福音書6章33節)

とキリストは教えられました。

またここには「富の惑わし」と言われていますが、お金を得るために、聖書を学ぶ時間もなくなっている人がいます。この世の快楽や、いろいろな欲望のために、聖書の研究をはじめても中断する場合もあります。快楽や欲望がすべて罪ではありませんが、私たちの存在の根本である神の言葉をおろそかにすることは危険です。

土地の手入れ

種まきのたとえを通してキリストは、同じ種がまかれても、それを受けとめる私たちの心の状態によって、その結果が違ってくることをお示しになりました。神の言葉を研究しても、私たちの心と生活に何の変化も起こらないとすれば、その原因は私たちにあるのです。大切なことは神の言葉を受け入れようとする心の準備です。聖書は「あなたがたの新田を耕せ(耕地を開拓せよ・新改訳聖書)、いばらの中に種をまくな」(エレミヤ書4章3節)とすすめています。

キリストの生涯をふりかえって考えて下さい。そこにあらわされた人間に対する比類のない愛がわかると、かたい心がやわらげられます。石地のような自我やいばらのようなさまたげを取り去っていただき、いつも神の言葉によって成長できるように、土地の手入れをしないと、聖書の研究は実を結ばないのです。

④ よい地

よい地というのは「御言を聞いて悟る人のことである」(マタイによる福音書13章23節)。「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」(ルカによる福音書8章15節)とあります。

このような人々はまじめに真理を学びそれに従おうとする人です。キリストの言葉を聞いても、それを拒んで、その意味を悟ることができない人がありました。

初期の教会の一つであるテサロニケの教会で人々は聖書が神の言葉であることを信じて受け入れました。指導者であったパウロは「それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれた」(テサロニケ人への第1の手紙2章13節)と書いています。聖書を自分に語りかける神からのメッセージとして受け取るということが、聖書を本当に学ぶということなのです。パウロはそんな態度で聖書を学んだテサロニケの人々のことを「この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである」(テサロニケ人への第1の手紙2章13節)といいました。これはすばらしい経験です。聖書の言葉が私たちの生活の中で、生きたものとなるのです。

皆さんは学校の化学の実験で、教科書を見て文字の上で理解していたことが、目の前の試験管の中で事実となって現れてくるのを見て、強い印象を受けられたことがなかったでしょうか。聖書の中に書かれた文字も、私たちの生活という大きな実験室で、事実となって現れてきます。そしてすばらしい人生が形作られていくのです。

また聖書の中心人物であるイエス・キリストが、私たちにとって生きた実在となります。そして聖書の研究は神と交わる有力な手段となります。

「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」

(ヨハネによる福音書14章23節)

とキリストは言われました。ここに神とのすばらしい交わりの経験があるのです。

2. 聖書の研究において注意すべきこと

同じ聖書を読んでいるのに、いろいろ違った考えを持っている人々がいます。それは多くの場合聖書の研究方法が正しくない結果です。そこで聖書を研究するにあたっての原則的なことを次に考えてみたいと思います

① 神の助けが必要――祈ること

聖書は神の霊感によって与えられたものですから、これを本当に理解するためには、これをお与えになった神の助けが必要です。聖書を研究する前には必ず神の導きを求めてお祈りして下さい。

② 聖書の教えを実行する態度

最初に述べたように、神のみこころを実行することが大切です。ある事柄は実際に体験してみなければわかりません。たとえば、リンゴの味を説明することはある程度できますが、一度もリンゴを食べたことがない人に説明することは困難です。前に人間回復の段階として悔い改めについて学びました。説明によってある程度わかっていただいたと思いますが、実際その経験をしなければ、本当にはわかりません。罪が許された喜びと平安も、実際に体験しなければ本当に理解することはできません。前にも述べたようにこの点が聖書の勉強とほかの勉強との大きなちがいです。

③ 前後関係をよくしらべること

聖書の意味を知るためには、一つの聖句だけをとりあげてその意味を考えるのでなく、その前後をよく読んで、全体からその聖句の意味を判断することが大切です。またわかりやすい言葉でも、それが語られた背景がわかるともっと深くその意味を理解することができます。その言葉が語られた時代的背景をいろいろな文献から学ぶことも、聖書の言葉の理解に役立つことがあります。

④ 調和する解釈

聖書は多くの人が書きましたが本当の著者は神です。したがってその言葉に矛盾はないはずです。一つの聖句の意味がいく通りにもとられる時には、それに関連のある聖句を出来るだけ多く調べて、全体に調和がある解釈をとるべきです。聖書を批判する人たちは矛盾のある解釈を探して、聖書には矛盾があると言いますが、聖書全体をみれば調和ある解釈ができるのです。また、ある時点で分からなかったことも、研究が進むと分かるということもあります。そして、人間の救いや、聖書の主要な問題については疑問の余地はありません。

⑤ 聖句で聖句を解釈する

一つの聖句の意味を他の聖句が説明している場合がしばしばあります。ですから聖句と聖句を比較して研究するとその意味を悟ることができます。

⑥ 研究の助けを用いること

この講座も研究の助けとして書かれたものですが、自分で聖書を研究する時は、どの聖句がどこにあるかについて書かれた辞典――聖書語句辞典――などはよい助けになります。また聖書の書かれたパレスチナの地図とか、その当時の年代表なども助けになります。

⑦ 不断の研究

たえず聖書を読むことは、聖書に対する興味を養う最もよい手段です。小さい聖書をいつも持っていて、機会あるごとに読み、それについて考えることはとてもよい習慣です。

希望の言葉

多くの人、ことにまだ信仰に入って日の浅い人々は、心に疑惑をいだいて悩むことがあります。聖書の中には説明のできないこと、また理解に苦しむことが多くありますから、悪魔はそれらを用いて、聖書が神の啓示であるとの信仰を揺り動かそうとします。彼らは「どうすれば私は正しい道を知ることができるでしょうか。もし聖書が本当に神のみ言葉であるとすれば、私は、どうすればこのような疑いと困難から解放されることができるでしょう」と尋ねます。

 神は、私たちに、信仰の土台をしっかりと築くことができる証拠を十分に与えた上でなければ、信じるようには求められません。神の存在も、品性も、また、み言葉の真実性もみな、私たちの理性に訴えるあかしによって確立されており、しかもそのあかしは数限りなくあります。けれども、神は、疑う余地を全く取り除かれたのではありません。私たちの信仰は、外面的なものの上にではなく、証拠の上に築くのでなければなりません。疑おうと思う者には疑うことができますが、本当に真理を知りたいと求めている人は、信仰の基礎となる十分な証拠を発見することができます。

 有限な心をもって、無限の神のご性質やみわざを十分に悟ることは不可能なことです。どんなに鋭い知性の持ち主にも、どれほど高い教育を受けた人にとっても、聖い神は神秘に包まれていてよくわからないのです。「あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか」(ヨブ11:7,8)とあります。

 使徒パウロは「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ローマ11:33)と言っています。しかしたとえ、「雲と暗やみとはそのまわりに」あっても、「義と正とはそのみくらの基である」(詩篇97:2)のです。こうして私たちは神が私たちを扱われる方法や、なぜそうされたのかというみ旨を理解して、無限のみ力に限りない愛とあわれみとが結びついているのを認めることができます。また私たちの益である限り神の目的を知ることができますが、それ以上は全能者のみ手と愛のみ心にお任せしなければなりません。

   (新生への道より)

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