【初めての聖書】 第2課 人生のみちびき

初めての聖書
この記事は約11分で読めます。

ただ一度の人生

≪序≫ 昔イスラエルの王であったダビデは、詩篇119篇105節で「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」と言っています。

だれにとっても人生は始めて通る道です。そしてただ一度しか通れない道です。知らないところに行く時は、地図や案内書がいるように、人生にも案内書が必要です。それがないと不安です。確信をもって歩いていくことができません。

そんな人間に対して、人生のみちびきとして与えられたのが神の言葉である聖書です。暗い夜の海を航海する船は、灯台の光を頼りにします。その光によって危険な場所を避け、安全な航海をすることができます。聖書の言葉は、人生の航海において、多くの人々を安全に導いた神よりの光です。

聖書の永続性

へンリー ・シーセンという神学者は、「25年以上その生命を保つ本の率はきわめて低く、百年となるとさらに低くなり、一千年も寿命の続いた本というのは、きわめてわずかなものであることを考えるとき、聖書が他に比べることができない独特の本であることに気がつく」と言いました。

聖書ほど迫害をうけた本もありません。聖書を読むことは度々禁じられまた焼かれました。それにもかかわらず聖書は今日まで生き残ってきたのです。

1778年に死んだフランスの有名な無神論者ボルテールは、「今から百年のうちにキリスト教は消えてなくなるだろう」と予言しましたが、なくなるどころか、彼の死後25年しかたたない時に、聖書協会が設立されて、聖書を印刷して、広く人々に配布する働きが始められ、キリスト教は広がっていきました。それ以来今日まで聖書はますます多くの人に読まれています。

初期の教会をおそったはげしい迫害の中にあって、「こうして神の言は、ますますひろまり」(使徒行伝6:7)と記されています。ペテロの第一の手紙1章24、25節には「「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である」とあります。  

東大元総長であった矢内原忠雄氏は、「真理とは抑圧しようとしても、抑圧することができないものである」と言いましたが、きびしい迫害を受けながら今日まで伝えられてきた聖書の言葉は確かに真理であり、私たちの道を照らす光なのです。

聖書と科学

聖書は科学の本ではありませんが、その中には科学の分野に属するようなことも書いてあります。それは一般の人が使う言葉で書いてありますが、正しい事実を述べているのです。聖書のある部分は科学と矛盾すると考えられたこともありましたが、科学が進歩して、それが間違いではなかったことが証明されてきました。まだはっきりしていない点があれば、急いで結論を出さないで、もっといろいろなことがわかるまで待つほうがよいのです。

ヨブ記26章7節には「地を何もない所に掛けられる」と書いてあります。ヨブ記が書かれた時代(BC.1500年ごろ)にはまだ万有引力のことも知られず、人々は地球は何かに支えられていると考えていました。聖書のこの言葉は、聖書記者が神より示されて真実を書いたと考えなければ理解できないことです。

昔は肉眼で見える星を数えていましたが、預言者エレミヤは今から約2600年前に天の星は数えることができず」(エレミヤ書33章22節)と言いました。紀元2世紀にアレクサンドリアで活躍した天文学者プトレマイオスは、有名な著書『アルマゲスト』の中に恒星の表をいれていますが、それには1028個の星が出ています。しかしガリレイが望遠鏡ではじめて空をながめた時、そこに無数の星を発見しました。それ以来大きな望遠鏡ができるにしたがって、数かぎりなく星が姿をあらわしてきています。

聖書の中には科学で説明できないようなこともありますが、科学はあらゆる問題に万能ではなく、その限界があることも認めなければなりません。しかしはっきり証明された科学の考えと聖書の言葉に矛盾はないのです。

聖書と考古学

17世紀の半ばごろから聖書の信頼性に対する批判が、ことにその歴史的な部分に対して、加えられてきました。この傾向は19世紀に入ってさらに強くなり、いくつかの点については、聖書の歴史性は全く否定される状態となりました。

しかし19世紀の始めから聖書に関する考古学が発達して、多くの発見がなされ、聖書の歴史の確かなことが証明されました。

その一つの例は旧約聖書に50回近くも名前が出てくるへテ人です。歴史家はそんな民族は存在しなかったと言っていました。しかし20世紀の初めに、小アジアで広大なへテ人の王国の遺跡が発掘されました。

三笠宮様は、その著『帝王と墓と民衆』の中で、ヘテ人の王国について「紀元前八世紀にアッシリヤのためまったくほろぼされてしまいました。このとき以後、三千年のあいだ、ヒッタイト(へテ人)帝国の存在は人々からまったく忘れられ、二十世紀にふたたび日の光をみるまで、しずかに地下に眠りつづけていたのです」(91ページ)と書いておられます。

聖書の預言

聖書は多くの預言を含んでいます。神は預言を通して人間に将来に対する光をお与えになりました。聖書は、「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ」(ヤコブの手紙4章14節)と言っていますが、ほんとうに私たちは、明日どんなことが起こるかを見通すことはできません。聖書の預言は、私たちを導く光です。聖書の預言は、終末に関するもののほかは、ほとんど全部事実となってあらわれています。次にその中から著しいものをあげてみましょう。

新バビロニアは紀元前六世紀ごろ、ユーフラテス川の流域に栄えた国です。特にその首都バビロンは、古代世界の驚異とされたほど繁栄した都であり、また外敵の攻撃に備えて城壁が堅固にかためられ、この都が滅びることなどは想像もできないほどでした。

しかし聖書の預言はどうだったでしょうか。西暦紀元前750年ごろの預言者イザヤは、

「国々の誉であり、カルデヤびとの誇である麗しいバビロンは、神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる。ここにはながく住む者が絶え、世々にいたるまで住みつく者がなく、アラビヤびともそこに天幕を張らず、羊飼もそこに群れを伏させることがない。ただ、野の獣がそこに伏し、ほえる獣がその家に満ち、だちょうがそこに住み、鬼神がそこに踊る。ハイエナはその城の中で鳴き、山犬は楽しい宮殿でほえる。その時の来るのは近い」

(イザヤ書13章19節~22節)

と預言しました。

歴史をみると紀元前539年に、新バビロニアの王、ベルシャザルは、ペルシャの王クロスのために殺され、都は一夜のうちに滅び去ってしまいました。

今日、バビロンを訪れる人は、聖書の預言が文字どおり成就しているのを見ることができます。バビロンの廃虚は現在のバクダットから約80キロ南にありますが、そこには今なお住む人もなく、荒れ果てているのです。

もう一つエジプトに関する預言を調べてみましょう。紀元前6世紀の預言者エゼキエルは、当時の強国エジプトについて次のように預言しました。

「わたしはエジプトの地を荒して、荒れた国々の中に置き、その町々は荒れて、四十年のあいだ荒れた町々の中にある。わたしはエジプトびとを、もろもろの国民の中に散らし、もろもろの国の中に散らす」

(エゼキエル書29章12節)

その時はエジプトが、この預言のようになることは想像できないことでした。しかし紀元前525年に、エジプトはペルシャによって征服されたのです。

14節には「すなわちエジプトの運命をもとに返し、彼らをその生れた地であるパテロスの地に帰らせる。その所で彼らは卑しい国となる」とあり、エジプトは再び回復されますが、前のように強大な国になることはないという預言は今日まで明らかに成就しています。

また現在成就しつつある預言もあります。これは非常に興味あるものですが、講座の後半で勉強したいと思います。それは直接に私たちの将来に関係があるものです。

ペテロの第1の手紙1章19-22節に、

「こうして預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」

とあります。聖書の預言は、人間の考えや見通しではなく、神がお示しになったものです。

聖書の預言を正しく学べば、私たちの将来を照らす光とすることができます。

聖書の学び方

聖書は真理の宝庫です。人間の生活を豊かにし、孤独や寂しさを慰め、永遠の希望を与えるために、神がお与えになった言葉です。その言葉には深い意味があり、ただ表面的に読みながしても、その意味を十分にとらえることはできません。聖書を研究して、それがほんとうに私たちの心の糧となり、喜びと希望を与えるものとなるために、まず聖書の言葉の意味を深くさぐる心が必要です。また静かな心で黙想すると、聖書の言葉が心にふれてきます。

キリストは、

神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」

(ヨハネによる福音書7章17節)

と言われました。これは聖書を読む時の大切な心がまえです。すなわち聖書を読んだら、それを実行しようとする心がまえです。実行してみると、聖書の言葉が真実なものであることがわかります。生活も考え方も変わってきます。そして私たちの心が成長してくるにつれて、聖書の言葉を深く味わうことができるようになります。

聖書は最初なじみにくいと思われるかもしれませんが、毎日読んでいると、心の支えとして一日でも読まないではおられないようになるのが多くの人々の経験です。

英国で2千人の孤児を収容した孤児院を、なんの財力もなく、ただ神にたよって経営したジョージ・ミューラーは、青年時代まじめな生活をしていませんでした。しかし二十才になった時、反省して信仰をもつようになり聖書を読み始めましたが、その意味がよくわかりませんでした。しかし辛抱して読んでいるうちに、ある日全く新しい経験をしました。その日から聖書はただの本ではなくなったのです。彼はその中に神の声を聞き、彼の生活は全く変わったものとなりました。聖書は彼の人生をみちびくものとなったのです。

聖書の読み方としてもう一つ大切なことは、聖書の言葉は、たとえばなしや歌や、詩的表現のほかはすべて字義どおりに受けとるということです。また聖句の意味を調べる時、その前後をよく読むと、その本来の意味を理解できるようになります。

詩篇119篇18節に「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください」と書いてありますが、心の目が開かれるにつれて、神の言葉のすばらしさが分かってきます。

ルカによる福音書24章に、キリストが二人の弟子に聖書を説明なさったことが書いてありますが、その時の経験が32節に「彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』」と記しています。神の言葉である聖書にふれることによって、あなたの心もあたたかく豊かになり、この弟子たちのように、「非常な喜び」(52節) をおもちになることができるのです。

色々な人の言葉

聖書は、「人間とは何か」「人生をいかに生きるべきか」「死後はどうなるか」「歴史の意味」「世界観」など人生の基本的な問題に解答を与えています。聖書にみちびかれて人生を歩んだ人々の言葉をいくつか紹介してみます。

「たとえ精神文化が永遠に進展しようとも、たとえ人間精神がいかにひろがりゆこうとも、福音書の中にきらめき輝くキリスト教の高さと、道徳的文化を越えることは決してあり得ない」         

ゲーテ

「聖書は最高の哲学である」        

サー ・アイザック・ニュートン

私は確信をもって聖書というゆるぎなき岩の上にいこう」

ウィストン・チャーチル

「聖書は神よりの最善の賜物」      

 エィブラハム・リンカーン

「神の言葉のほかに文明に対する竪固な土台はない」

ダニエル・ウェブスター

「私が生涯においてなしたすべてのことは、時に、母が毎日聖書の一部を読み、また暗唱させたことによるものである。」   

ジョン・ラスキン

希望の言葉

人はだれでも他に感化を及ぼすものである。信仰、勇気、希望などの生き生きとした愛の香りを放つものもあれば、あるいは、不平とわがままのために、重苦しく、冷たく憂うつで、心の中にひそむ罪の毒気を放っているものもある。わたしたちは、だれでも、このように自分の回りに、一種の雰囲気を持っていて、意識的に、または、無意識に、接する人々に感化を及ぼしているのである。これは、わたしたちの避けることのできない責任である。わたしたちの言葉、行為、服装、態度、あるいは、顔の表情でさえも、感化力を持っている。このようにして及ぼされた感化によって、相手がどれほどよくなるか、または、どれほど悪くなっていくか、だれにもわからない。このような刺激はすべて、必ず収穫をもたらす種である。それは、人類世界の長いできごとの連鎖の1つの輪であって、それが、どこまで続いているのかわからない。もしわたしたちが、自分たちの模範によって、人々の心の中によい原則を植えつけるのを助長したとすれば、彼らに善を行う力を与えることになる。彼らはまた彼らで、同じ感化を他の人々に与え、その人々はまた他の人々へと感化を及ぼしていく。こうして、わたしたちが、無意識のうちに及ぼした感化によって、幾千もの人々が祝福を受けるようになる。湖水に小石を投げると、波が生じて、次第に広がってついには岸にまで達する。わたしたちの感化もそれと同じで、わたしたちの知識と支配の限界を越えて、祝福かあるいはのろいを与えている。品性は力である。

(『キリストのたとえ話』より)

     

タイトルとURLをコピーしました