【初めての聖書】 第29課 現代の使命Ⅱ―審判の時

初めての聖書
この記事は約11分で読めます。

≪序≫ 

ある青年が「神を信じないで自由勝手にふるまっている人が長生きをして栄えたり、神を信じてまじめで立派な人が早死にしたりするのはどうしてですか」と質問しました。

「人生は不公平である」という感じをいだく人がいるのは昔も今も変わりはありません。しかし人間の幸・不幸を私たちが判断するのは難しいことです。ローマ人への手紙8章28節には

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」

とあります。

全知全能の神は、私たち一人ひとりの必要を知っておられるので私たちが神に従っていけば、最善の道をそなえて下さいます。

悪に走る人にも、神はあわれみの心をもち、あらゆる機会を通して正しい道に返るのを待っておいでになります。しかし悪は永久に許されるのではありません。ある時期がくると、人間はすべての行動に対して責任を問われます。すなわち審判の時がくるのです

1. アサフの歌――詩篇73

「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている」

(1節―7節)。

見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる」(12節)。

悪人が栄えるのを見た時、この詩篇の記者は悩みました。しかし彼が、人類を救う神の計画と、その最後にくる審判の場面をみた時、悪は必ず罰せられ、滅ぼされることを知ったのです。

「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう」(17―19節)。

神の聖所というのは、人間の罪に結末をつけるところです。何者も神の目をあざむくことはできません。

神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」

(伝道の書12章14節)

と書いてあります。

そこでパウロは

「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」

(ローマ人への手紙12章19節)

といいました。神の支配から人間は逃れることができません。必ず裁きによって善悪の結着がつけられるのですから、不公平に見える人生の出来事にも動揺する必要はないのです。

2. 聖所とは何か

① 聖所の儀式

神は十戒をモーセにお与えになったあと、聖所を作るように指示されました。聖所は2つの部屋からできていて、手前の部屋を聖所、奥の部屋を至聖所といいました。ここで行われた儀式は、キリストによる救いの計画の全体像を示すものでした。そのうちで重要なものは、罪を犯した個人のための儀式でした。罪を悔い改めた者は捧げ物にする動物を聖所の入り口に連れてきて、その頭の上に手をおいて罪を告白しました。こうして象徴的にその罪が彼自身から罪のない犠牲の動物の上に移されたのです。それから自分の手でその動物を殺しました。聖所の儀式をつかさどる祭司は、その血を聖所と至聖所の間の幕の前に注ぎました。これはキリストの贖罪をあらわす型で、罪はキリストの血によって赦されることを示していたのです。そして注がれた血によって、罪は聖所の中へ移されたわけです。

また、ユダヤ暦の7月10日はあがないの日(大贖罪日)と呼ばれ、この日には至聖所で特別の儀式が行われました。この時は二頭の山羊を選んで、そのうちの一匹を主のための捧げ物とし、もう一匹をアザゼル(悪魔)の象徴としました。儀式をつかさどる大祭司は、まず主のための山羊を殺してその血を持って至聖所にはいり、十戒が収められていた契約の箱の上に注ぎました。

至聖所から出てきた大祭司は、アザゼルの山羊の頭に手をおいて、イスラエル人のすべての罪を言い表わし、定めておいた人に渡して荒野に連れて行かせます。山羊は人里離れた荒野で食物も水もなく、やがて死ぬのです。これは最終的にすべての罪とその起源であるサタンが滅亡することを表していました。

この日に人々は聖所のまわりに集まって、断食して、深く自分の心を反省し、すべての罪を悔い改めていることを確かめました。もし悔い改めていない罪があれば、その人はイスラエル民族のうちから除かれたのです。

② 審判の型

あがないの日に行われたこの儀式は、私たちが悔い改めた罪が吟味されたあと、天の記録から完全に消し去られることを示していました。これを調査審判といいます。この聖所の儀式は、現在天において行われているキリストの働きの型でした。昇天なさったキリストは、私たちが罪を悔い改めるとき、御自分の血によって罪を赦しきよめて下さいます。そしてある時期がくると、あがないの日に行われていたように、天の記録にあるすべての悔い改めた罪を調べて最後に悪魔に負わせられます。すべての罪はキリストによってあがなわれますが、悪魔は罪の創始者であり、人を誘惑して罪を犯させたのでその責任を問われるのです。

あがないの日に審査されたのは、悔い改めた人々の罪であったように、調査審判のときは信仰を告白している人々の罪が本当に許されているかどうかが調べられるのです。

悪人の裁きは前に学んだ千年期の期間に行われ、千年期の後キリストが天の都と共に降臨されるとき、その報いを受けます。

調査審判が終わると神の国にはいる人々の数が確定し、キリストが再臨なさるのです。

聖所の儀式の目的は、罪人が最終的に、聖なる神様が臨在される至聖所へ入り、神様とお会いすることです。罪人は、至聖所へ入るために、順を追って聖所の経験をたどっていきます。外庭での義認の経験(罪の悔い改め、全的献身、聖霊によって心を洗われる経験)、聖所の第一の部屋での聖化の経験(み言葉を食べ、祈り、聖霊の力によってみ言葉の光に従って歩む)を通って、人は至聖所に入り、罪を焼き尽くすシカイナの栄光の前に立つことが出来るようにされます。心の奥底にあった罪の問題が解決され、神様と顔と顔を会わせて交わることが出来るようにされる時、救いの計画、聖所の目的は達成されるのです。

至聖所は、審判を意味していました。罪のために、エデンから追放された人類が、再びエデンに回復されるためには、その原因である罪と、無関係になったかどうかが調査されなければなりません。天の住民たちは、罪と反逆にうんざりしています。罪がすべてを破壊しました。罪のために、仲間だった全天使の3分の1が失われ、それ以来、長くつらい闘いが続いたのです。そのような天の住民たちが、人類の審判において陪審員として座っているのです。私たちは、天国に罪を持ちこませないために、綿密に調査されなければなりません。私たちの生涯の記録が、細かく審査され、罪のない世界に生きるのにふさわしいかどうか、救っても安全かどうかが、天の住民の前で明らかにされるのです。

私たちは、罪のない世界へ入るのに、ふさわしいものになる必要があります。もし十字架による罪の赦しだけで、救いが与えられるのだとしたら、どうしてこんなに長く、罪の歴史が続かなければならないのでしょうか。

神様は、罪人が真心から罪を憎み捨てているかどうかを、調査されなければなりません。人が、イエス様が下さる恵みによって、罪に勝利しているかどうか確認される必要があります。なぜなら、与えられたすべての光に対して、完全に服従しているかどうかによって、信仰は証明されるからです。それを明らかにすることを、調査審判と呼びます。

3. 調査審判の開始

調査審判がいつ始まるかは、ダニエル書8章14節に預言されていました。

「2300のタと朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」。

預言の中の1日は実際の1年を表わすことが次の聖句からわかります。

「あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」(民数記14章34節)。「わたしは一日を一年として四十日をあなたのために定める」

( エゼキエル書4章6節)。

「タと朝というのは1日のことで、創世記1章を見るとユダヤ人は1日を夕方から始めたことがわかります。したがって2300のタと朝というのは2300日のことで、実際の歴史では2300年となります。ですからこの聖句は2300年たつと聖所が清められる、すなわちあがないの日にあたる調査審判が天において始められるということです。

この2300年のはじめは、この聖句の意味を知ろうとして祈っていたダニエルに、天使が教えた言葉によって分かります。

「あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています」

(ダニエル書9章24節)。

これはイスラエル人のために七十週=490日、すなわち490年という特別な時が定められているということで、ダニエル書8章と9章を読むと、これも2300年の期間と同じ起算点であることがわかります。その開始の時期については

「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい」

(ダニエル書9章25節)

とあります。

イスラエルの歴史を調べると、ペルシャのアルタシャスタ王が、紀元前457年に、エルサレムを建てなおせという命令を出しています(エズラ記6章14節、7章7節―9節参照)。したがって2300年の起算点は紀元前457年になるわけです。

またイスラエル人のために特別に定められていた期間は紀元34年までとなります。この時まで福音は特にユダヤ人に伝えられました。そして7週と62週すなわち69週(483年)は紀元27年となり、この年にメシヤ(救い主)がくるという預言が成就しました。

「その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません」

(ダニエル書9章26節)

というのはキリストの十字架ですが、27節には、「彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃する」とあり、聖所でキリストの十字架をあらわしていた儀式が廃せられたのはキリストが十字架におつきになった時で、それは週の半ば(3年半)におこる、すなわち紀元27年から3年半たってのことであるというこの預言も正確に成就しました。

さて2300年の終わりは、1844年となり、この時から調査審判が開始されて現在に至っているのです。調査審判が終わると全人類の運命が永遠に決定します。今はその瀬戸際にある大切な時です。

イスラエルの人々はあがないの日に、自分をかえりみ神に従う者として、全く罪よりきよめられているかどうかを反省しました。今回、私たちも同じような心構えをもって日々を過ごさなければならないのです。

4. 必要な心構え

ルカによる福音書16章にキリストのたとえが出ています。ある金持ちのところにいた家令が主人の財産をごまかしていて、そのことが主人にわかりました。そこで主人は「あなたの会計報告を出しなさい」といいました。彼は心の中で「どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう」と思い、主人の負債者たちを呼び出して、その証書の数字を書きかえてすくなくしてやりました。これを知った主人は、家令の利口なやり方をほめたというのです。

このたとえは誤解されやすいですが、家令がほめられたのは、その不正な方法ではありません。彼が自分の将来のことを本気で考え、用意したという点です。私たちはだれでもいつか「あなたの会計報告を出しなさい」といわれる時がくるのです。そして自分の生涯で行ったすべてのことの収支決算をしなければなりません。それは審判の時です。

今日人々の心は、目先のことだけにとらわれています。永遠のことを忘れて、この世のことだけに心をそそぎ、煙のように消え去っていくものに心を奪われてしまい、ほんとうに大事なことを忘れています。

罪を悔い改め、神に従う生活にはいって裁きのために備えをすることは今日いちばん大切なことです。

≪希望の言葉≫

聖書のいう清めを経験する者は、謙遜の精神をあらわす。彼らは、モーセのように、聖なるお方のおそるべき威光をながめ、無限のお方の純潔と崇高な完全さと比べて自分たちの無価値なことを認めるのである。預言者ダニエルは、真の清めの実例である。彼の長い一生は、主のための気高い奉仕に満ちていた。彼は、神に「大いに愛せられる人」であった(ダニエル 10:11)。この栄誉にあずかった預言者は、しかし自分の純潔と清さを主張しないで、自分を真に罪深いイスラエルの1人とみなし、自国民のために神の前で懇願した。「われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。」「われわれは罪を犯し、よこしまなふるまいをしました。」ダニエルは「こう言って祈り、かつわが罪とわが民の罪をざんげ」したのである。そして、後に、神のみ子が現れて、彼に教えをさずけられた時、「わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった」とダニエルは言っている(ダニエル 9:18、15、20、10:8)。

ヨブは、つむじ風の中から主の声を聞いた時に、「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」と叫んだ(ヨブ 42:6)。イザヤは、主の栄光を見、ケルビムが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」と呼ばわるのを聞いて、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と叫んだ(イザヤ 6:3、5)。パウロは、第3の天にまで引き上げられ、人間には語ることのできない言葉を聞いた後、自分のことを、「聖徒たちのうちで最も小さい者である」と言っている(Ⅱコリント 12:2―4参照。エペソ 3:8)。また、かつてはイエスの胸によりかかった愛弟子ヨハネは、主の栄光に接した時、その足もとに倒れて死人のようになった(黙示録 1:17参照)。

カルバリーの十字架の影を歩くものには、自分を高めたり、自分はもはや罪を犯さないなどと誇ったりすることはあり得ない。彼らは、自分たちの罪が、神のみ子の心臓を破裂させるほどの苦悩を引き起こしたことを感じる。そしてこの思いが、彼らをへりくだらせる。イエスに最も近く生活する者が、人間の弱さと罪深さを最もはっきりと認める。そして自分たちの唯一の希望を、十字架につけられ復活された救い主の功績に置くのである。

             (キリストと反キリストの争闘史より)

タイトルとURLをコピーしました