【初めての聖書】第11課 人間の回復

初めての聖書
この記事は約12分で読めます。

序・救いの道

はじめ神のかたちにかたどってつくられた人間は、健全な清い心と、高い能力を与えられていました。しかし神に反抗し、自分の考えに従って生きようとして、神を離れ、罪の道にはいりました。その結果滅びが運命となりました。愛の神は、このような人間を滅びより救う計画をお立てになったことを第8課で学びました。この課では人間はどうすればこの救いを自分のものにすることができるかを、聖書から学びたいと思います。

人間の救いは、教育や意志の鍛錬(たんれん)とか修養では得られません。聖書は心が全く新しくされて、神と完全に調和する道を示しています。これは個人の経験となることが大切ですから、聖書の言葉を一つ一つ実行して、心の中に起こる変化を体験していただきたいと思います。

1 放蕩息子のたとえ

キリストがお語りになった放蕩息子のたとえは、救いへの段階をよく示しています。

「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮(きゅう)しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかつても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。・・・・』それから祝宴がはじまった」(ルカによる福音書15章11-24節)。

このたとえ話は、ある裕福な家庭の父と子の会話から始まっています。この弟は平和で堅実な父の家の生活に嫌気がさして、違う世界を求めはじめていたのです。彼は自由に自分の好きなことができる世界を考えました。そしてその計画を実行するために、父親が生きているのに財産の分け前を要求したのです。

このたとえの父は神をあらわしています。弟は人間の姿です。はじめ人間は神と共に住み、神は人間の父であったのです。しかし人間は神に従って生活することに満足せず、自分が自由にふるまうことができる世界を求めました。この弟の行動に人間がたどった道が描かれています。

弟は自分に与えられた財産を持って、遠い国へ旅立ちました。遠い国―そこは、いわゆる自由の世界であり、この世の一見はなやかに見える生活の場で、そこにはあらゆる虚偽と罪悪がありました。それは神のもとから遠く離れた罪の世界だったのです。

弟はそこで遊び暮らし、いつの間にかそのすべての財産を失ってしまいました。自分の思う通りの生活をして、全く自由にふるまったのですが、ほんとうに幸福ではありませんでした。

財産をことごとく費やした時に、その国に大きなききんが起こりました。放蕩息子は生活の苦しさを感じはじめました。彼はやむを得ずある人のもとに行って豚を飼うことにしました。豚飼いはユダヤ人がいちばん軽蔑していた仕事でした。はなやかな夢をみて家を出た青年のさっそうとした姿は、もうどこにもありませんでした。

自分のために生きる生活は、やがてその自分を保つこともできなくなってしまうのです。そのような人の生活は、神に対しても、人間に対しても全くの浪費であり、無意味な人生となるのです。

2 救いの段階

①罪を認めること

このたとえの青年は家を出る時、自分が悪いことをしているとは思っていませんでした。自分のしたいことをするということだけを考えて、家に対する責任も、父に対する感謝も忘れていました。今、豚飼いになって何とか生き延びようとしたのですが、生活の苦しさからのがれることはできませんでした。全く行き詰ってはじめて彼は自分を反省しました。そして「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」と言いました。

救いに至る第一歩は自分が罪人であることを認めることです。十戒に照らして自分の心の中や、言葉、行動を振り返る時、罪を認めることができます。

② 悔い改め

この放蕩息子は心も体も限界に追い込まれた時、自分のほんとうのみじめな姿に気づき、父の愛を思い起こしました。父に申しわけないと思い、自分の罪を悲しみ、それから離れる決心をしました。これを悔い改めと言います。ほんとうの悔い改めは、罪に対する悲しみとそれから離れることを意味します。罪そのものを悲しむのでなく、罪の結果起きる苦しみや罰を恐れて、悪かったと思うだけでは、ほんとうの悔い改めにはなりません。人間が十字架を通してあらわされた神の愛を悟る時にほんとうの悔い改めができます。

キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)と言われました。キリストは信仰生活のすべての助けを与えて下さいます。ほんとうに悔い改めることも、キリストの助けによってできるのです。そのことについて聖書は

そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。」(使徒行伝5章31節)

と述べています。

悔い改めは罪のゆるしの前にきますが、悔い改めるまではキリストのもとに行かれないというのではなく、キリストのもとに行って、その生涯と十字架をながめる時、神の愛を悟ることができ、ほんとうの悔い改めに導かれるのです。

③ 告白 

放蕩息子は、父のところに行って罪を告白しました。その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける」(箴言28章13節)。告白の仕方ですが、すべての罪は神に対してのものですから、神に告白しなければなりません。しかしその罪が人に迷惑を及ぼしている場合は、その人に対しても告白すべきです。また一般に広く知れわたっている場合は、公に告白しなければなりません。しかし関係のない人に告白する必要はないのです。

罪の悔い改めと告白は、ばく然としたものではなく、一つ一つの罪について具体的になされなければなりません。イスラエルの王ダビデは「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた」(詩篇32篇3節)と自分の体験を語っていますが、私たちも罪をかくさないで、一つ一つ処理すれば、すがすがしい気持ちになることができます。また、告白はただ口先だけのことではなく、心から悪かったと思い、生活の改変を伴わなければなりません。

④ 信仰

以上のような段階を通って、ひとり子キリストを十字架の死にわたすほど私たちを愛して下さった神の愛を悟り、神に従うことを決心し、イエス・キリストの身代わりの死を信じ、キリストを自分自身の救い主として受けいれるのです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の生命を得るためである」

(ヨハネによる福音書3章16節)。

またどんな罪でもゆるして下さる聖書の約束を信じることです。

「自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい

(使徒行伝3章19節)。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」

(ヨハネの第一の手紙1章9節)。

こうしてすべての罪がゆるされ私たちは神に受け入れられて、心に大きな平安と喜びがくるのです。

3 信仰による義

初期の教会の有力な指導者であったパウロは、キリストによって私たちの罪がゆるされ、神の前に正しいものとして受けいれられることについて、

「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」

(ローマ人への手紙3章23、24節)

と言いました。

また「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし・・・。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためである」(エペソ人への手紙2章4-9節)。と述べています。

救いはキリストの十字架による賜物(プレゼント)で、全く神の恵みによって与えられるもので、私たちが善行を積んで得るものではなく、神が一方的に備えて下さったものです。私たちはただ信仰の手を伸ばして、この賜物を受けとるだけでよいのです。これはなんという大きな恵みでしょう。この救いの良い知らせを聖書は「福音」とよんでいます。この福音によって私たちは、神の前に全く罪のないものとして立つことができ、永遠の滅びを逃れることができるのです。

救いは人間の行為にはよらないことを示すパリサイ人と取税人のたとえが、ルカによる福音書18章10節から14節までにでています。

「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲(どんよく)な者、不正な者、姦淫(かんいん)をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。』

パリサイ人は当時の宗教家で、善行を積んで救いを得ようとしていました。一方取税人は税金を集めてローマ政府におさめる役でしたが、いろいろな不正もやっていたので人々から軽べつされていました。それでも彼が心から悔い改めて罪のゆるしを求めた時、神は彼を正しい者として受けいれて下さったのです。これはキリストの十字架のあがないによるのです。

放蕩息子のたとえにかえってみますと、息子を迎えた父の姿は、罪を悔い改める罪人を神がどのように見ておられるかを示しています。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」とあります。

息子を迎えた父が、「最上の着物を出してきてこの子に着せ」たのは、信仰によって与えられる義をあらわしています。放蕩息子が罪をゆるされたばかりでなく、子として受けいれられたように、私たちも正しいものと認められて、神の家族として受け入れられるのです。このことを「義と認められる(信仰による義)」と言います。ここに神の大きな愛があり、キリストの弟子ヨハネはこの愛について

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」

(ヨハネの第一の手紙3章1節)

と記しています。

4 成長

人が悔い改めて罪をゆるされ新しい生活に入ることを、聖書は誕生にたとえ、また種が芽を出すことにたとえています。ここから神と共に歩む新しい生命がはじまります。その生命は成長し、私たちはだんだんキリストの姿に近づいていきます。

キリストの弟子のヨハネは愛の使徒とよばれ、キリストの姿を最もよく反映した弟子でしたが、彼ははじめ、利己的で、名誉心が強く、衝動的で短気でした。しかしキリストと共に生活して、その美しい品性を見るうちに、自分の欠点がわかってきました。キリストのすばらしい品性を見て、これに印象づけられ、動かされて、だんだん性格が変わっていったのです。キリストに対する愛がこの変化の原動力になりました。

キリストは私たちの罪をゆるして下さるばかりでなく、自分の意志を全くキリストに服従させるならば、私たちをきよめ、罪に勝利する力を与えて下さいます。キリストに心をささげることによって罪の支配からのがれ、私たちのうちにある罪の法則から解放されるのです。

こうして私たちは、キリストの助けによって、神の律法を守る生活にはいり、品性は成長していきます。このような成長を「聖化」といいます。義と認められるのは悔い改めた瞬間で、その義認の経験を継続しながら、イエス様の品性に似るようにされていくことが、これからの聖化の歩みです。

希望の言葉

神は、人間がお互いを取り扱うように私たちを扱われるようなことはありません。彼は、愛とあわれみといつくしみ豊かな神です。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主はゆたかにゆるしを与えられる」(イザヤ55:7)。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」(イザヤ44:22)と言っておられます。 「わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル18:32)。悪魔は、この尊い神からの保証を奪い去り、人の心から希望と光を消し去ろうとしていますが、そうさせてはなりません。試みる者に耳を貸してはなりません。「イエスは私が生きるために死んでくださったのです」と言いましょう。彼は私を愛し、私が滅びるのを喜ばれません。私にはまた愛にあふれる天の父があります。私は、天の父の愛をないがしろにし、せっかく与えられた祝福を無駄にしましたが、立って天の父のみもとに行き「わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪をおかしました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人のひとり同様にしてください」と言わなければなりません。このたとえは、さまよい出た者がいかに迎えられるかを次のように語っています。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいてせっぷんした」(ルカ15:18~20)。これは実に優しく、人の心を動かさずにはおかない物語ですが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。主は預言者を通し、「わたしは、限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ31:3)と言われました。罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費しているとき、父の心はその子の身の上を案じているのです。そして、神へ帰りたいと言う気持ちを彼の心に起こさせるのはみな、聖霊のやさしい訴えの声であって、さまよい出た者へ熱心に話しかけ、哀願し、父なる神の愛の心に引きつけようとしておられるのです。         (『新生への道』より)

タイトルとURLをコピーしました