【初めての聖書】 第7課 人間の失敗

初めての聖書
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序・最初の人間

初めにお創りになった人間を、神は祝福してアダムという名をおつけになりました。彼は最初の男性でした。次に神はアダムにふさわしい助け手としてエバという女性をお創りになりました。彼らは神が備えてくださったエデンの園で生活し、この園を管理する仕事を与えられていました。

そこには人間が幸福で生きがいのある生活を送ることができる基本的な条件がすべて整っていました。人間をお創りになった神は、人間の性質を完全に知っておいでになったので、人間にほんとうの喜びや満足を与えるすべてのものを備えて下さったのです。

現在の世界は多くの問題をかかえ、人間の心は豊かさを失い生活は貧富の格差が広がっています。自然界も放射能など様々な汚染物質によって破壊されています。聖書はこのような状態になった原因を説明しています。

エデンの園

エデンの園は、美しい場所でしたが、人間はそこで何もしないで遊んで暮らすというようなところではありませんでした。神に造られた人間は、優美で均整のとれた体と、高い知的能力と、神のことを理解できる力を与えられていました。そして、これらの能力は、固定したものではなく、適当な活動によって成長していくことができました。この成長の可能性は、無限の神に近づいていく永遠の可能性であり、日ごとに新しい知識と新しい経験に成長していくことは、人間の限りない喜びであり、希望でもあったのです。

エデンの園は公害などのない、すばらしい自然の環境でした。現在でも自然は人間の心に大きな影響を与えます。自然は人間の心を豊かにし、安らぎを与えてくれます。エデンの園は最初の人間に与えられた学校でした。そこは、神から知識を受けるところであり、また労働の場でもあったのです。

自然は神がお創りになったので、神の性質を表していました。昔アブラハムは天の星をながめて、神の全能を信じました。一枚の木の葉でも、一輪の花でも、神の無限の知恵と力をあらわしています。

アダムとエバは自然について学び、創造者である神をより深く理解することができました。また直接神と交わることによって、彼らの品性は成長していきました。私たちの生活においても、いろいろな人との出会いによって、自分の人生が変わるような経験があります。人生の新しい理解に導かれたり、人生のより深い意味を発見したりします。しかし人間にとって最もすばらしい経験は、神との出会いです。ここには有限なものと無限なものとの接触があり、限りない成長があるのです。

また人間の成長は活動からきます。神は人間に責任を与え、有用な仕事をするようお命じになりました。それはこの園を「耕し、守る」ということでした。

ここに人間の生活と教育の原型を見ることができます。人間はこのような生活の中に、つきることのない喜びと生きる意味を見いだすことができたのです。

善悪の知識

エデンの園には「善悪を知る木」という特別な木がありました。この木について創世記2章16,17節に、

「主なる神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」

とあります。

エデンの園で、人間は全く自由でした。人間は自由に選択することができる意志を与えられていました。それによって彼らは責任を負うことができたのです。人間が自分で考え、行動することができたのは、神の性質を反映していました。人間はただ命令通りに動く機械ではありませんでした。今日も人間はこのような能力を持っていて、深く考え、正しく行動する能力は、人間の価値を定める土台です。教育はただ知識をつめこむのでなく、はっきりした考え方とたくましい行動力をもった人間を育てることが大切です。

しかしこの思考力や行動力にはその基準、あるいは方向を定めるものがなければなりません。この宇宙は神がお創りになり、神の性質を反映しています。このことは自然界についても、精神の世界についても言えることです。その具体的な現れが、自然の法則であり、十戒なのです。この宇宙は神の性質からでた法則という枠組みの中で存在しているのです。それを承認し、それに従わなければ、存在することはできません。

アダムとエバのエデンの園における生活も、神の法則を認め、これに従うことなしには、継続していくことはできなかったのです。そのことを具体的な形で表していたのが「善悪を知る木」でした。その実を食べてはいけないというのは神の権威を認め、神に服従することを意味していたのです。光とやみが両立することができないように、この宇宙には、神の基本的な性質に反するものは、存在することができません。そのことを認めてそれに調和していくことが、人間の生存の条件であったのです。

誘惑

 創世記3章に、このような人間に起こった誘惑の記事がでています。1節から6節までです。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』。女はへびに言った、『わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました』。へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」。

善悪を知る木は、人間の神に対する服従のテストでした。また善の知識は人間に豊かに提供されていたのですが、悪を知ること、悪を経験することは人間を不幸におとしいれるので、知らされていなかったのです。罪とその結果である苦しみ、悩み、失望、悲しみ、死というような経験は人間から遠ざけられていました。これは人間に対する神の愛の配慮です。神は人間の完全な幸福を願い、それを得ることができる道を示しておいでになりました。

誘惑者は「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」と、神の指示に対して不信の気持ちを起こさせるような言葉で近づいてきました。

神の愛は神のお創りになった自然界にも、聖書にも表されています。太陽と雨と新鮮な空気は、美しい自然をつくり、生物の必要を満たし、幸福と喜びを与えます。

「よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます」

(詩篇145篇15,16節)

と詩篇の記者は書きました。

新約聖書には

「天の父(神=著者注)は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」)

(マタイによる福音書5章45節)

とあります。

また

「二羽のすずめは一アサリオン(ローマの貨幣、現在の300円ぐらいにあたる=著者注)で売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」

(マタイによる福音書10章29~31節)

とあり、神の愛に満ちた配慮は全宇宙に及んでいるのです。私たちがその神の愛に信頼して、神に従っていくならば、私たちの心は平安で、生活も安定してきます。神の愛とその知恵を疑わせようとするのは、常に誘惑者のとる手段です。

エバが善悪を知る木について、

「これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」と答えると、誘惑者は、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」と言いました。

誘惑者は、善と悪とのまじった知識や経験が、人間を豊かにするものだとか、神がこの木の実をとることを禁じておられるのは、より大きな幸福を与えないようにしておられるのだということを、エバに信じさせようとしたのです。こうした考えはいつの時代にもありました。神の命令に従うか、神と独立して行動するかということは、いつも誘惑の根本にあります。エバは神に対する信頼を捨てて、神に反逆する道を選びました。そしてこれが人間の犯した罪のはじめとなったのです。

罪の結果

アダムとエバが犯した罪は、いろいろな影響を与えました。善悪を知る木の実を食べた時、エバもアダムもこれまでより高い存在状態にはいったような気がしました。しかし、間もなく彼らの心は、罪を犯したことを意識しておそれを感じました。周囲の空気も急につめたくなったように感じられ、心の中にやどっていた平和と愛はなくなり、罪の意識と未来への不安、心の空虚さを感じるようになりました。

神がエデンの園を歩まれる音を聞いた時、彼らは園の木の間に身をかくしました。今までのように喜んで神の前に出ることはできなくなりました。

神は罪を犯した人間に

「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」

(創世記3章19節)

と宣告なさいました。そして死が人間の運命となったのです。死はアダムの子孫に遺伝して、すべての人間は死ぬものとなりました。今までは苦しみではなかった仕事や労働は、苦痛や疲労をともなうようになったのです。エバに対しては

「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」

(創世記3章16節)

と言われました。

この時以来、苦しみの生活が人間の運命となりましたが、これは罪の滅びと堕落から人間を回復する手段の一部として、人間に必要な訓練となったのです。

エデンの園には「命の木」があって、その実を食べることによって、人間は永遠に生きるように創られていました。しかし、死を宣告された人間はその日以来「命の木」から遠ざけられ、エデンの園に住むことができなくなったのです。それでもはじめの人間は、現代の人よりはるかに長い生命を持つことができました。

罪の結果は自然界にも表れてきました。今まで自然は神の愛の性質だけを表していたのですが、罪が入ってからは、悪の性質も表すようになり、人間は自然を通して、神の姿とともに、罪の結果に対する警告を受けるようになりました。花はしぼみ、木の葉は散っていく自然の姿の中に、やがて衰えていく自分の姿を見るようになり、すべての生物はやがて死ななければならないというきびしい現実を知らされることになったのです。

罪は神に対して、言いつくすことのできない大きな痛みを与えました。純粋な、強い愛に対する裏切りほど心を傷つけるものはありません。しかし神は、滅びに定められた人間に救いの道をお開きになりました。この救いの計画こそ、聖書が私たちに告げようとしている中心のテーマです。

回復の約束

エデンの園で神は、死に定められた人間が、再び希望を持つことができることをお告げになりました。アダムとエバは絶望状態に置かれたのではありませんでした。ここにも神の深い愛を見ることができます。放蕩息子を思いやって心をいためる父親のように、神は、神を無視して、神から離れていった人間をなお愛し、救いの道に導こうとされました。

イスラエルに対して与えられた次の聖書の言葉は、死に定められた人間に対する神のみ心をよく表しています。

エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。どうしてあなたをアデマのようにすることができようか。どうしてあなたをゼポイムのように扱うことができようか。わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている」

(ホセア書11章8節)。

エフライムとイスラエルはいずれも神の民を表し、アデマとゼポイムは昔神によって滅ぼされた町です。

「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」

(エレミヤ書31章3節)。

神が人間を再びもとの状態に回復して下さる救いについて、自然界もそのことを語っています。木の葉は枯れて落ちても、また新しい葉が出てきます。花はしぼんでも、神はまた新しい花を備えて下さるように、罪に汚されたこの世界も、死に定められた人間も、再び回復の道があることを示しています。そこに神の招きがあり人間の希望があるのです。

希望の言葉 

聖書の、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)というキリストの招待は、罪を悔い改めなければ受けられないとは教えていません。罪人が真に悔い改めるようになるのは、キリストから出る力によるのです。ペテロはこの点をはっきり述べて、「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである」(使徒行伝5:31)とイスラエル人に言っています。私たちは、キリストなくしては赦しが与えられないのと同じように、キリストの霊が良心を呼びさまさなければ悔い改めることができないのです。

キリストはすべての正しい動機の根源であって、彼だけが人の心のうちに罪を憎む心を植えつけることがおできになります。ですから、真理や純潔を慕い求めること、自分の罪深さを認めることなどは、キリストの霊が私たちの心に働いておられる証拠です。

イエスは、「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)と言われました。キリストは世の罪のために死なれた救い主として、罪人の前に示されなければなりません。カルバリーの十字架にかけられた神の小羊をながめるときにはじめて、説明することのできない救いの計画の神秘が私たちの心にも理解され、神の深い恵みが私たちを悔い改めへと導くのです。キリストは罪人のために死なれ、はかり知れない大きな愛をあらわしてくださいました。罪人がこの愛を知るとき、深い感銘を受けて心はやわらげられ、悔い改めへと導かれるのです。                

( 『新生への道』より )

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