【初めての聖書】 第32課 正しい教育

初めての聖書
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≪序≫ 

人間の活動のうち最も基本的なものの一つは教育です。教育は人を育てる働きですから、明日の社会は教育にかかっているといっても過言ではありません。

教育の出発点は人間を正しく理解することです。しかしかつて中央教育審議会から出された、教育改革構想について、答申案を執筆した審議官は、「審議会の委員の印象としては、人間の本質にとりくむほど、教育についての学問は進歩していないということだった」と述べました。この点は教育について考える上でいちばん根本的な問題です。

宗教は人間をどう考えるかを教えますから、教育の土台としてこれを無視することはできません。人間をいかに理解するかによって、いろいろな教育の考えや方法が生まれてきます。

今日世界の各国は教育に対して非常に強い関心を示しています。我が国でも教育論議は盛んです。また教育ママという言葉が作られるほど、親も子供の教育に熱心ですが、必ずしも子供の成長のためによい効果をあげているとはいえません。

聖書が示している正しい教育とは、どんなものでしょうか。

1. 人間をどう理解するか

聖書には始めに「神は自分のかたちに人を創造された」と書かれていて、最初人間は神に似た本性を備えていました。その本性は愛です。また人間は自由意志を与えられていました。このような自由意志は危険を内包していて、人間は善の道を選ぶことができると同時に、悪の道を選択することもできたのです。しかし自由がなければ、人間の行為はロボットと同様で、たとえ立派な行為をしたとしても、道徳的な価値はありません。教育においては、この自由意志をどう育てていくかということが、人間形成の重要な問題となります。

次に人間の現状については、この自由意志を誤って用いた私たちの祖先の悪への傾向を、受け継いでいることを認めます。子供たちに何かを教えて、すぐそれが実行できるならば、教育はやさしいのですが、実行しようと思っても、それができないところに問題があるのです。教育は人間に内在する悪への傾向との戦いであることを忘れてはなりません。この意味では真の教育は贖罪と同じく、人間の本当の回復をめざすものです。

人間の生きる目的は、愛の品性を形成し、愛を生活の中に実現していくことです。それは人に奉仕する生活としてあらわれてきます。したがって教育の最後の目標は品性の完成と奉仕の生活であり、ここに真の喜びと幸福があるのです。

ロシアの文豪トルストイは「人間にとって確実な幸福がただ1つある。それは他人のために奉仕することである」といいました。

こう考えると、教育に関する一般の考えは、その範囲がせまいことがわかります。教育はある勉学の課程を修めるということよりも、もっと広い意味をもたなければならないのです。

2. 知・徳・体の教育

人間形成の基本的な三方面として、知育・徳育・体育があります。最近では三育教育という知・徳・体のバランスのとれた教育を提唱する声がありますが、この教育理念は古く聖書の中に示されており、コメニウス、ルソー、ペスタロッチ、フレーベル等の教育学者も唱えました。これに著しい展開を与えたのは、19世紀から20世紀にかけて、米国の著名な宗教指導者であったE・G・ホワイトです。米国のコロンビヤ大学教育学部教授、フローレンス・ストラテマイヤー博士は、人間の深い洞察に基づいて、知・徳・体のバランスのとれた人間の完成をめざすホワイトの考えは、非常にすぐれた教育理念であるといいました。

かつて皇族の高松宮は、三育教育をめざす学校を視察されたとき、「…頭脳と心と手とその三つの調和のとれた教育哲学を展開されたエレン・ジー・ホワイトの非常にすぐれた教育論に基づいて基礎づけられた学院であることを承知するからであります。…今日20世紀に立つ我々人類の永遠の生命か、あるいは死滅か、また光か闇か、その決定をつけようとしている時、どうしてもこれをふみこえて進まなければなりません」と語られ、三育教育が人類の危機を救う手段となることを示唆されました。そのとき文部大臣の代理として来校した片岡甚太郎氏は、文部省の機関誌『文部時評』にホワイト著、「教育」の書評をよせ、三育教育によせるホワイトの宗教的情熱を高く評価しました。

三育教育の実例として聖書には、キリストの少年時代について、「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」(ルカによる福音書2章52節)と書いてあります。知育、体育のうえに、神と人から愛されたという品性が形成されることによって、人類の光となった偉大な生涯が実現したのです。

3. 幼児期

幼児期は品性の形成上最も重要な時期です。E・G・ホワイトも生後3年間に適切な訓練を与えることが重要であるといい、また

「子供が生まれてから最初の7年間に学ぶ教訓は、そのあとの全生涯で学ぶものよりも、品性の形成に大きな関係をもっている」

といいました。

東大の教授であった時実利彦博士は、人間の脳の神経細胞の発達を研究して、幼児期における環境や感化の重要なことを立証しました。博士によれば、人間の脳の神経細胞は、生まれてから3才までに60パーセント、7才までに80パーセント、それから徐々に発達して、20才ごろ完成します。

人間の品性といってもこれは抽象的なものではなく、大脳の神経細胞に基礎をおくもので、ここに行動のパターン(型)をきめる土台があるのです。そして体の発達は品性の発達と密接に関係してきます。

幼い時代の環境や教育が人の一生を大きく左右します。ナポレオンの小さい時、彼の教師はいつも戦争ごっこをやらせていました。強烈な無神論者となったボルテ-ルは、5才のころ無神論の詩を暗唱させられ強い影響を受けたのです。懐疑(かいぎ)論者(ろんしゃ)のD・ヒュームは、小さい時に討論クラブに属して、信仰に反対する議論に熱中したと伝えられています。「三つ子の魂百まで」ということわざは、私たちが考えている以上に真実なのです。

聖書の中には、幼い時のよい教育が、人の一生を支配した例をいくつかみることができます。イスラエルの預言者であり、精神的指導者であったサムエルは、母親ハンナの手もとにあった三年間に、彼女の心をこめた教育を受けました。彼女は幼いサムエルに善と悪との区別を教えるようにつとめました。その後彼は、大祭司エリの薫陶(くんとう)をうけたのです。

エジプトの宰相(さいしょう)となり、その危機を救い、またイスラエル人が一つの民族として形成されていく上に、大きな役割を果たしたヨセフは幼い時、父ヤコブのもとで神への信頼を教えられました。ヨセフの生涯を特徴づけている忠実、廉潔(れんけつ)は、幼い時、家庭においてその基礎が築かれたのです。

この時期に子供に教え、訓練する第一の要点は服従です。子供は最初に親に対する服従を学ばなければなりません。十戒の第5条は親に対する尊敬と服従を要求しています。この場合、服従を教えようとする親自身が、子供の尊敬と信頼と愛をかちえていなければなりません。愛は教育を有効に行うための根本的な条件です。

今日多くの母親に、小さい時に服従の習慣を養うことの必要が理解されていないため、その後のしつけにもいろいろな問題が生じています。母親も忙しいので子供の言うなりになって、最初のしつけが十分にできません。やがて子供が成長して、権威と自己の意志とを調整することができないで、両親や教師を悩まし、社会の一切の権威に反抗するようにもなるのです。

このようなしつけの目標は、子供が自分で自分を治めることができるようになることです。すなわち社会の水準なり、承認された権威なり、あるいは神に対して、自分の立場を正当に関連づけていくことです。これができないと、秩序ある社会の一員となる資格を失うことになります。

このような服従は、ただ何にでも盲従(もうじゅう)するのではなく、理性と良心の判断によって、当然従うべきものに服従する意志の訓練を意味します。

4. 体育はすべての土台

知・徳・体の教育において、体の教育は土台です。精神生活と身体との間には、密接な関係があり、身体は精神生活の基礎となっています。ホワイトは「心と魂は、身体を通して表現されるので、知的な力や霊的な力は、身体の力と活動によって大いに左右される―身体の健康を増進するものはすべて強い精神と均整のとれた品性の発達を助長する。…したがって健康は品性と同様に忠実に保護されなければならない。生理衛生の知識はすべての教育の働きの根本でなければならない」と書いています。

できるだけ早くから正しい生活習慣をつけ、簡単な生理学や健康に関する知識を与え、これを実行させなければなりません。

体育というとスポーツやレクリエーションを考えますが、それとともに労作教育の重要性を忘れてはなりません。実際的な労働や仕事を与えることです。学校に行く前に家庭でも子供に適当な仕事をさせることができます。これによって、勤勉、忠実、正確、徹底、注意、礼儀、時間励行、責任を負う等のよい品性をつくりあげる実際的訓練を与えることができます。

5. 知育

知育は教育の主流と考えられ、教育的努力の大部分はここに注がれてきました。しかしその基本姿勢や方法については、多くの反省が必要です。

何をどう教えるかということは、時代の要求や社会情勢に従って変わってきました。学校の現場としては、確かに教えることが多すぎるのです。現代のような情報化社会において、情報の量は飛躍的に増大しつづけています。学校で取り扱える範囲は、時間的な制限があります。そこで社会生活の必要とどこでバランスをとるかが問題です。教科書にあることを省くのは、現場の教師としては不安だから結局つめこみ教育となり、生徒の側では不消化に終わってしまうのです

ホワイトは「長年にわたって教育は、おもに暗記に力がそそがれてきた。暗記の能力には極度の負担が負わされてきたが、他の知的な能力はそれほどに発達させられなかった。生徒たちは頭に知識をつめこむことに時間を費やして努力しても、その知識の中で実際に役に立つものは少なかった。このように、消化することも、自分のものとすることもできない事がらをつめこまれた頭脳は弱くなり、自分の力で活発に思考することができなくなり、他人の判断や理解に依存して甘んじている」と言いましたがこれは現代の学校教育に対する適切な批判です。つめこみ主義で、自主的な思考をさまたげる教育では、生徒は真の判断力を養うことができないので、責任の負える人間となることは難しいのです。

学力をつけるということは、教育においていちばん関心をもたれている点ですが、あるテストでいい点をとったから学力があるともいえません。望ましい学力とは、精選された基礎的な知識や情報源、記憶力、思考力(推理、総合、評価等)、創造力、観察力等を身につけることです。このような学力を身につけた学生は、社会に出て有能な人物になることができます。

普通用いられているテストは、このような学力をテストできるものばかりではありません。ハーバード大学教授D・C・マクレラン博士の研究によれば、一般に用いられている知能テストや適性テストの成績は、社会に出てからの成功とはあまり関係がないという結果がでています。また知的発達の個人差にも注意しなければなりません。

5. 徳育

三育教育の最後の柱は徳育です。ホワイトは「真の教育は知識よりも能力を、能力よりも善を、知的な素養よりも品性を重んじる。世は広い知識をもった人間よりも、高貴な品性をそなえた人物を必要としている。才能が堅固な原則によって支配されている人物を世は求めている」と言いました。

品性は人間の基本的価値であり、よい品性の形成は、教育の最も重要な問題です。今日人間の知識は高度に発達しましたが、それを本当の幸福のために用いることができるような人物を教育はつくり出しているでしょうか。「宗教のない教育は、知恵のある悪魔をつくる」という言葉がありますが、宗教は徳育を徹底させるのに大きな助けです。神を考えにいれなければ道徳もただ便宜的なものとなり、せいぜい人に対して恥をかきたくないという程度にとどまってしまうのです。宗教は徳育に対して強固な土台を与えます。

このことは内閣府がまとめた第8回 世界青年意識調査(HTML)(平成21年3月)にもあらわれています。この報告書によると、日本の青年が他の国の青年とちがった傾向を示していることの一つは宗教心が非常に薄かったことで、宗教が深く根をおろしているところほど、健全な人生観をもち、働く目的も「社会人としての義務」や「自己実現のため」等と答える者が多く、「金銭を得るため」等は少なくなっています。また性道徳などもしっかりしていました。絶対者である神を対象とした生活と、そうでない生活にはおのずから差が生じてくるのは当然です。

人間が悪への傾向を持っていることをふまえると、ほんとうに徳育を行うためには、人間の努力だけでなく、神よりの助けが必要であり、神の標準を示すと共に、どうやってそれに到達するかという実際の方法を教えることが必要となってくるのです。

聖書は「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12章1節)とすすめています。

≪ 希望の言葉 ≫

世界で最も欠乏しているものは人物である。それは、売買されない人、魂の奥底から真実で、正直な人、罪を罪とよぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示して変わらないように、良心が義務に忠実な人、天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人、―そういう人である。しかし、こういう品性は偶然にでき上がるものではない。それはまた神の特別な恩恵や天分によるものでもない。高潔な品性は自己修練の結果である。それは肉欲を精神に従わせること、すなわち、神と人とに対する愛の奉仕のために自我を克服することによって達せられるのである。青年たちは、自分の天分は自分自身のものではないという事実を心に刻みこまなければならない。能力も時間も知性も、借りた宝にすぎない。それは神のものであって、どの青年もこれを最高の目的に用いる決意がなければならない。青年は、実を結ぶようにと神に期待されている木の枝、資本を増殖すべき家宰、世の暗きを照らす光である。どの青年も、どの子供も、神の栄えと人類の向上のために、それぞれしなければならない働きをもっている。

 預言者エリシャは、その幼年時代を静かないなかの生活の中で、神と自然に教えられ、有用な働きをしこまれて育った。彼の父の家族は、当時ほとんど全国的な背教の中にあって、バアルにひざを屈しなかった一部の人々の仲間であった。その家庭は神をあがめ義務を忠実に果たすことを日常生活の法則としている家庭であった。富裕な農夫のむすこエリシャは、最も手近なところから働きをはじめた。人々の指導者となる素質をもっていた彼は、まず日常の平凡な義務について訓練をうけた。人を賢明に導くためには、自ら人に従うことを学ばなければならなかった。小さなことに忠実であることによって、彼はいっそう重い責任をになうのにふさわしい者となった。

 エリシャは、柔和でやさしい精神を持っている半面にまた精力と強固な意志を持っていた。彼は、神を愛しおそれる念を胸にいだいていた。そして毎日平凡な仕事をくりかえしているうちに、確固たる目的ととうとい品性を身につけ、神の恩恵と知識の中に成長した。彼は、家事に父と協力している間に神と協力することを学んだ。

                    (『教育』より)

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