【初めての聖書】 第24課 教派があるのはなぜか

初めての聖書
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≪序≫ 

キリスト教に興味をもち、聖書の研究をはじめた人がやがて気になるのは、キリスト教にいろいろな教派があるのはなぜかという問題です。

キリスト教徒の中には、自分の属している教会だけが唯一の正しい教会であると考えたり、またある人は、たとえ登っていく道はちがっても結局は同じ山の頂上に達するのだからどの教会でも自分の都合のよい教会に行けばよいという人もいます。

また聖書を信じているなら、既存の教会に属さなくても一人で信仰していればいいのではないかと考える人もあります。

この課では教会とは何か、また多くの教派はどうしてできたのか、正しい教会の姿は何かということを、聖書と教会の歴史から学んでみたいと思います。

教会という意味のギリシャ語(エクレシヤ)は、はじめ特別の目的のために集められた市民の集まりをさす言葉でした。新約時代(キリスト降誕以後)にこの言葉は、キリストを救い主と信じ、その教えに従う人々の集まりを表し、新約聖書の中では次のような意味に用いられています。(1)礼拝のために集まっている人々。(2)ある場所における信者の集まり。(3)全世界の神に従う人々。英語の教会(チャーチ)という言葉は、ギリシャ語のクリアコンからきたもので、「主に属するもの」という意味です。

1. 教会

今日のような教会の組織は新約時代からのものです。キリストは宣教をはじめられるにあたって12人の弟子を任命されましたが、これはキリストがこの世を去られた後、地上におけるキリストの代表となるべき教会組織の第一歩でした。新約聖書の中に、教会の組織とその発展、教会の働きなどを見ることができます。特に使徒行伝は、当時の文明世界に、教会が広がっていく様子を生き生きと描いています。そして、1世紀末には全世界の信徒数は約500万に達しました。

① 教会の性質

エペソ人への手紙1章23節に、「教会はキリストのからだ」とあり、5章23節には「キリストが教会のかしら」とあります。かしらとからだはしっかりとつながっていなければならないように、キリストと教会の間には密接なつながりがあるのです。そして教会はキリストのみ旨にしたがって動いていくのです。

教会がからだにたとえられていることには、深い意味があります。からだはいろいろな部分からできていますが、どの部分でもそれぞれ果たすべき特別の働きを持っていて、指一本でもなくなれば不自由になります。それと同じように教会に属する私たちはたとえ小さな存在でも、神は一人ひとりに対してこの世で果たすべき特別な目的を持っておいでになります。教会を構成する一人ひとりは神にとってかけがえのない存在なのです。

からだは全くすばらしく造られています。一つの行動をするにも、多くの筋肉や神経が協同して働きます。教会も神の目的を実現するためには、一致と調和が必要です。教会員はそれぞれちがった性質や能力をもっていますが各自がキリストに近づいていくことによって、一致と調和を生みだし、教会の働きを進めていくのです。

また教会の中には、ほんとうの愛と同情がなければなりません。コリント人への第1の手紙12章26節、27節には、

「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、1つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」

とあります。

教会には神の祝福が満ち、私たちが健全な信仰生活をしていくためのあらゆる助けが与えられます。またキリストを中心とした交わりがあり、これにはいることによって喜びと心の支えを得ることができます。

しかしすべてのクリスチャンが、キリストのからだである真の教会に属しているとはかぎりません。教会員名簿に名前が書かれていても、ほんとうにキリストを信じ、キリストの教えに従っていなければ、キリストのからだということはできません。

② 教会の働き

教会は人々に福音を伝えるために組織されました。キリストは昇天される前に、弟子たちに向かって、

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」

(マタイによる福音書28章19節、20節)

とお命じになりました。世界中のすべての人にキリストの救いと教えをのべ伝えることは教会が組織された目的です。

キリストの弟子であったペテロはその手紙の中で、神の教えに従うようになった人々について、

「それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」

(ペテロの第1の手紙2章9節)

といいました。

2. 教会の歴史

キリストが地上を去られたあと、いろいろな反対や迫害の中で、弟子たちはキリストの教えを広めていきました。はじめ迫害はユダヤ人より起こり、2世紀にはいるとローマ帝国による激しい迫害が起こりました。それはローマ帝国の思想には、国家を最高の権威とする考えや皇帝礼拝など、神を第一とするキリスト教と根本的に相いれないものがあったからです。またキリスト教以外の宗教も、自分たちの勢力が圧迫されることを恐れて、全力をあげてキリスト教を撲滅(ぼくめつ)しようとしたのです。しかしこのような迫害の中にあって、神の働きは着実に前進しました。「キリスト者の血は種である」とテルトウリアヌスが言ったように、幾千、幾万の者が投獄され、殺されましたが、すぐにそれに続く信仰者があらわれて宣教の働きをすすめたのです。

しかし4世紀にコンスタンティヌス帝が出て、キリスト教は合法の宗教と認められるようになり、ローマ帝国における迫害は終わりました。それと同時に教会の中に妥協の精神がはいってきて、神の言葉より離れるようになりました。

6世紀になると教会は更に神より遠ざかり、神の言葉である聖書よりも、教会という制度の権威をその上において、教会会議の決議によって、聖書の教えに反するような教義を教会のなかに持ち込んできました。このようなことが起こることについて、テサロニケ人への第2の手紙2章3節、4節には

まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」

とあります。教会の権威を、神の権威である聖書の上においた中世紀のカトリック教会はまさにこの預言の成就でした

やがて16世紀に起こった宗教改革において、ルターをはじめ改革者たちは、カトリック教会の聖書に反する教えに抗議(プロテスト)したので、プロテスタントと呼ばれるようになりました。彼らの主張は、聖書のみが信仰と行為の基準であり、教会においては聖書が最高の権威を持たなければならないということでした。「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒行伝5章29節)というのがキリストをかしらとする教会の正しい姿勢です

このプロテスタント精神は、後に信仰の自由を求めてオランダを去り、アメリカに移住する決心をした清教徒に対するジョン・ロビンソン牧師の告別説教の中に明らかに現れています。彼は「私がキリストに従っている限り、私に従いなさい。もし神がさらに新しい真理の光を示されたらそれを受けいれるように。私はまだ神が今まであらわされた以上の真理と光を聖書の中に持っておいでになることを信じる」と言ったのです。また当時のプロテスタント教会について「現在の状態は残念である」といいました。その理由は「教会が改革運動を起こした人々から一歩も進んでいないこと、すなわちルーテル派は、ルターが聖書の中に発見した真理以上に進んでいない。カルバン派の人々も、カルバン以上に進んでいない。彼らはその時代には、輝く光であったが、神の教えを知りつくしていたのではない。彼らが生きていたら、さらに多くの光を受けることを望んだであろう」と言い、教会は聖書よりの真理の光をもっともっと探し受けいれていくべきであると語ったのです。

宗教改革者たちによって起こされたプロテスタント教会は個人の信仰の自由を重んじた結果、聖書の解釈や強調点が異なるようになり、いろいろな教派に分かれていきました。もし彼らが聖書をよく調べ、全面的にこれに従ったならば、多くの教派に分かれることはなく1つとなるはずでした。真理は1つですから、同じ聖書を土台としている限り、教派に分かれるはずはなかったのです。

しかしロビンソン牧師が言ったように、ほとんどのプロテスタント教会は、その指導者が認めた真理以上には進みませんでした。その結果多くの教派が今日も存在しているのです。

3. 19世紀以後の教会

19世紀に世界の各地で再臨運動が起き、特にアメリカではダニエル書の預言の研究から、1844年にキリストが再臨されるというメッセージが伝えられ、大きな運動となりました。この運動に参加したのは、メソジスト教会、バプテスト教会、長老教会、監督教会、ルター派教会など当時アメリカにあったほとんどのキリスト教会の牧師や信徒でした。しかしこの再臨運動は、「その日、その時は、だれも知らない」(マタイによる福音書24章36節)という聖書の言葉に反して、1844年という時を定めていたので、再臨は起こらず大きな失望に終わりました。その結果多くの人々が聖書を文字通り具体的に信じることをやめてしまいました。しかし聖書に対する信頼を捨てなかった人々もいました。彼らは聖書には間違いがないはずだと確信して熱心に研究を続けている中で、再臨についての聖句の解釈が間違っていたことを発見しました。そして彼らは、色々な教派からきていた人たちでしたから、これまでばらばらになっていたプロテスタント教会の教えを一つにまとめるために、ひざまずいて祈りながらさらに熱心に聖書を研究していったのです。

その結果彼らは、カルヴァンの宗教改革の遺産である、「行ないによる義認ではなく、信仰のみによって救われる」や、絶対的な「神の主権」を聖書的な真理として認めると同時に、メソジスト派のジョン・ウェスレーが、カルヴァンの予定説に対抗して築いた「自由意志」「聖化-キリスト者の清い生活」を尊重するようになりました。また、ルタ-派の「万人祭司」(ロ-マ5:17)、すなわち、カトリックの告解制度は非聖書的であり、全ての人は、「直接神に、イエス・キリストのみ名によって祈ることができる」ものと信じました。さらにバプテスト派の改革の遺産である、「人は死後すぐに天国と地獄に行くのではなく、無意識の眠りの状態にいて、キリストの再臨の時に復活する」という復活信仰や「水に沈めるバプテスマ(浸礼)」を聖書的なものとして受け入れ、会衆派清教徒が主張した「政治と教会は、分離すべきである」とに同意しました。またメノナイト再洗礼派の健康節制生活に従って、酒、タバコ、有害な食品を避けるという基礎的な聖書の教えによってまとまるようになりました。

4. 宗教改革の完成を目指して

ご存知ですか?これまで、 聖書の真理を唱えた多くの人々が、教派と教権の争いによって血を流して来た過去の歴史のことを。ジョン・ウェスレーは、イギリス国教会から追放され、結果としてメソジスト派の創始者になりました。彼らは律法主義者、方法論者(Methodist)と酷評されましたが、それがまさにメソジスト派(Methodist)の名称になりました。しかし、宗教改革者たちの継承者と言われる人々は、メソジスト派の信者たちをむごたらしく虐殺しました。カトリック教会からの迫害ではなく、同じプロテスタントである兄弟たちから、教理的な相違によって刃を向けられたのです。

私たちは、このような教派と教権の壁を壊したいと願っています。ただ、「聖書が何を語っているのか」それだけに耳を傾けて、それが真理であるならば「アーメン」と言って受け入れ、偏見や利己心から離れ、聖書の真理を回復させることを願います。そうです。聖書は、全てのキリスト者がそこで一つとなり、そこに帰らなければならない、いのちの最初であり最後である指針なのです。キリスト教は、み言葉の宗教です。天の父なる神様は、み言葉によって天と地とをお創りになりました。そしてみ言葉をもって私たちをお救いになります。聖書にあるように、イエス様は「肉体をとられたみ言葉」であり、説教は「宣べ伝えられるみ言葉」であり、聖書は「記録されたみ言葉」です。「言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネによる福音書1:14)。これが福音です。そして、私たちは聖書の中に永遠の命があると思って調べている」ヨハネによる福音書5:39)のです。キリスト教は、すなわち、聖書信仰なのです。これだけが真のキリスト教を見分けるしるしです。

宗教改革と異なる働きではありません。それは、一言で言うと、「聖書、ただ聖書に帰ろう」(Sola Scriptura)という運動です。人間の言説や伝統でねじ曲げられた偽りの教義をとり除いて、純粋な聖書の言葉に立ち帰ろうというのが宗教改革でした。

宗教改革の歴史を注意深く調べてみて下さい。ルタ-、カルヴァン、ツウィングリ、ジェロームなどは、カトリック教会を、偽キリスト、バビロンであると宣言し、命がけで宗教の改革を訴え続けました。ところが、今日のプロテスタントの姿はどのようなものでしょうか?

“Protestantism”です。すなわち、プロテスタントという名前自体が、本来、対抗者(Protestant)という意味を含んでいます。しかし今日、プロテスタントはその名を失いました。火刑や拷問など、大きな犠牲を払いながら守ってきた改革信仰の貴い志を忘れ、聖書的に明白な誤謬と悟りながらも、それを改革しようとする意志を喪失したままではないでしょうか。信仰的良心に何の負い目も感じず、改革のための犠牲よりも、自分たちが手に入れた平穏な生活を楽しむ、今日の大部分のプロテスタント信者は、真実に宗教改革の継承者たちなのでしょうか? 今日、誰が本当に、宗教改革者たちが引き起こした真理の鼓動を、受け継いでいこうとして立ち上がるのでしょうか? これからは、皆様が見聞きされる全ての物事を、神様のみ言葉で確認されるよう、心からお願いいたします。

今日、キリスト教には、多くの教派が存在します。しかし、聖書のいくつかの教えを重視して、それによって創り上げられたような教派にとどまることは、神様のみ心ではありません。宗教改革は現在進行形です。宗教改革者たちが始めた真理の回復運動は、その継承者たちのところまで来て中断してしまいました。しかし、ルタ-の時代に完全に回復できなかった真理の光は、改革運動を通して、今後もっと継続していかなければなりません。自分たちの教団の教理と、相手方の教団の教理が異なっているから異端なのか、それとも、聖書の原則に背いているから異端なのか、異端を判別する基準は、聖書という絶対的な基準を用いるべきです。その意味で、私たちは、各教団が持っている真理、いわば見いだされた高価な真珠を、一つの糸に通して、聖書の全体系を明らかにするために努力しています。

近年、「エキュメニカル(教会合同)」という名目で、数多くのプロテスタント教派、ルタ-派教会でさえも、和解と連合という美名のもと、カトリック教会と宗教連合を結んでいます。しかし、カトリック教会は彼らの教理を全く変えてはおらず、むしろいっそう強化しているのです。教皇ベネディクト16世は、「唯一カトリックのみが正統なキリスト教会である。カトリック以外は教会ではない」との宣言を出しました(2007.7.12)。

今後カトリック教会は、政治の力を後ろ盾にして、より強力な態度で、中世紀の栄光を取り戻そうとすることでしょう。これが終末へと向かうシナリオです。

私達の宣教的使命は、“キリストが再び来られる時に、生きて主をお迎えする、真のキリスト者たちを備えさせること”にあります。人類歴史の終着駅が近づいているにもかかわらず、自らキリスト者と名乗る人々が、依然として、世と自我に執着したまま過ごしている姿は、大いに悲しむべき事と言わざるをえません。私たちは、キリスト者の姿がどうあるべきかを証しながら、バプテスマのヨハネのように、悔い改めの福音を宣べ伝える使命を持っていると信じています。そして、「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下って」(第1テサロニケ4:16)来られる時に、空中で、主と、よみがえった人たちにお会いすることが、私たちの喜びなのです。

私たちは、皆様が聖書を学ばれる時、聖霊のお助けをいただかれるよう願い、「隠された宝」を多く見つけ出して、より豊かに実を結ぶキリスト者となられることを願っています。

イエス・キリストの恵みと、神様のお助けと、聖霊の導きとが、常にあなたと共にありますように祈りつつ、清教徒たちの父であるロビンソン牧師の、1620年の説教からの一言を伝えながら終わります。

“宗教改革は、いまだに終わっていない”

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