【初めての聖書】 第22課 クリスチャンの生活

初めての聖書
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≪序≫

 今から約2000年前にユダヤでお生まれになったイエス・キリストを、救い主として信じ受けいれた人々をクリスチャン(キリスト教徒またはキリスト者)と呼んでいますが、これは、はじめシリアのアンテオケで、キリストの弟子たちが呼ばれた名前です。ギリシャ語ではクリスチアノスといい、キリストに従う者という意味です。

この世の中には人々が誇りにするような名前や称号がいろいろありますが、クリスチャンという名前は尊い名前であると聖書はいっています(ヤコブの手紙2章7節参照)。

全宇宙を支配なさる王であるキリストに従っていくことは、私たちにとって最も幸いなことです。キリストは私たちを限りなく愛し、ついに自分の生命をも与えて下さいました。私たちが希望と喜びのある生活をすることができるのは、キリストが私たちの身代わりとなって十字架におかかりになったためです。

このような愛によって救われた私たちが、この愛にこたえて、キリストに従っていくとき、生活にどんな変化が起こってくるでしょうか。

1. 最初のクリスチャン

19世紀から20世紀にかけて、米国における著名な宗教家であったE・G・ホワイトは、はじめにクリスチャンと呼ばれたアンテオケの信徒について次のように書いています。

「弟子たちがはじめてクリスチャンと呼ばれたのはアンテオケにおいてでした。その名前が与えられたのは、彼らの説教も、教えも、会話の主題もキリストであったからです。彼らはキリストが地上で働かれた日々に起こった出来事をいつも語っていました。キリストの教えといやしの奇跡を倦(う)むことなく語りつづけていたのです」

(『使徒の働き』157ページ)。

キリストは「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである」(マタイによる福音書12章34節)といわれましたが私たちの心にあふれていることが口に出てくるのです。今世紀最大の科学者の一人、アルパート・アインシュタインは相対性原理という物理学における一つの根本的な考えを発見した人です。その弟子のインフェルトが彼のことを書いている中に、アインシュタインは朝インフェルトと会っても、おはようというあいさつもしないで、いきなり前の晩に考えた物理学の話をはじめたといっていますが、アインシュタインの心は物理学でいつもいっぱいになっていたのです。だからほかのことを語る余裕はありませんでした。

アンテオケのクリスチャンは、心がキリストのことでみちていたので、口を開けば、いつもキリストのことを語ったのです。彼らをクリスチャンと呼んだのはだれであったかはっきりしませんが、はじめは軽蔑をともなった渾名(あだな)でした。

どうして彼らの心はそれほどまでキリストにとらえられたのでしょうか。E・G・ホワイトは次のように書いています。

「彼らが(ゲッセマネの)図におけるキリストの苦悶(くもん)、裏切り、審問、刑の執行、彼の敵によって加えられた非礼と拷問をキリストが謙虚にたえられたこと、彼を迫害する者のために祈られた神にふさわしいあわれみについて語るとき、唇はふるえ、目には涙がありました。キリストがよみがえって昇天し、罪を犯した人間のとりなしの働きを天でなさっていることは、彼らが喜んで語る話題でした」

(『使徒の働き』157ページ)。

彼らは罪の中にあった自分の姿と運命を知っていました。どんな生涯を送ったとしても、彼らの前には滅亡という暗いふちが横たわっているだけでした。高浜(たかはま)虚子(きょし)は「人生は悲劇だな、人は死ぬんだから」といいましたが、死はだれものがれることが出来ない運命です。

そのような人間を神は愛して下さいました。罪を犯した人間は「足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ」(イザヤ書1章6節)というみにくい姿です。しかも宇宙全体からみればチリより小さい地球の上に住む人間に、神が愛を注がれたということは神秘です。しかしその愛は、キリストが地上にくだり、さまざまな苦しみの後十字架におつきになったことによって、疑うことのできない事実としてあらわされたのです。

このような愛をみたことは、彼らに深い感動を与えました。宇宙における最も強い力は愛です。これは単なる感情ではなく、相手に自分を与えつくす強い意志に裏づけられた全人格的な活動です。

アンテオケのクリスチャンは、この愛にとらえられたのです。愛が愛をよびさますといわれます。スコットランドの神学者へンリー・ドラモンドは「愛は人生のエネルギーである」といいました。クリスチャンの心にあふれたキリストに対する愛は、彼らの生活の原動力となりました。

2. クリスチャン生活の特徴

① 自由

キリストは

「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」

(ヨハネによる福音書8章31節、32節)

といわれました。自由の人格をもつものとして造られた人間にとって、自由は大切な遺産です。そしてほんとうの自由は真理によって得られるのです。

A ) 罪からの自由

これまで学んできたように、罪は人間の支配力となり、人間は悪への根強い傾向をもっています。サタンは常に人間の弱点をおそって罪におとしいれようとします。

エデンの園に罪がはいったあと神は、へびによって代表されたサタンに「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに」(創世記3章15節)といわれました。人間はサタンに誘惑されて罪を犯しますが、罪の中にほんとうの満足を見いだすことはできません。一時的なたのしみがあるようにみえても、罪は決して心の平和を与えません。それだけでなく罪は人間を束縛します。この束縛から解放されるためには、キリストに頼るより外はありません。

真理である聖書を学び、キリストの助けを求めるとき完全に罪より解放されることができます。十字架によって罪がゆるされるだけでなく、「彼〔キリスト=著者注〕を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1章12節)とあるように、私たちが神の子としての実質をそなえることができるようにして下さいます。

サタンははじめから神の律法に反逆しました。宇宙をおさめる土台となっている神の律法は不完全で守ることができないと主張したのです。そこで救いの計画を通して神はサタンの主張がまちがっていることをお示しになる必要がありました。ここに神が全宇宙を支配なさる上での根本的な問題があるのです。神は救いにはいった人々が罪の力から解放されて、神の律法を守る生活にはいることを期待しておいでになります。

このことが私たちの生活に実現するためには、聖書をよく読み、また祈りによってたえず神と交わり、キリストの力を受けることが必要です。

B ) おそれと不安からの自由

私たちは将来のことがはっきりしないので、不安を感じおそれます。またどんな人にも力の限界を感じるときがあるのです。しかしこの世界を支配しておいでになる愛の神に信頼すれば、すべてのおそれや不安から解放されることができます。そしてどんなことが起こっても、希望と心の平安をもつことができるのです。

キリストは「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネによる福音書14章27節)といわれました。

② キリストを主とする

クリスチャンはキリストを主とする人です。神の主権をこの世界にも、自分の生活にも認めます。近代におけるいわゆる人間の解放は、人間が神を主と認めず、自己を主として生きることでした。しかし自己を主として生きてきた人間は今や全くゆきづまりの状態となってきました。クリスチャンはキリストの愛に感動して、神を主と認めたのです。そこには神に信頼し、そのみ旨のうちに歩む生活があります。

③ キリストを友とする

クリスチャンは神に対してもう一つの関係があります。それは交わりであり、友としての関係です。キリストは「わたしはあなたがたを友と呼んだ」(ヨハネによる福音書15章15節)といわれました。

よい友をもつことは人生の幸福です。米国の百貨店王といわれたジョン・ワナメーカーは、ある時伝道者ビリー・サンデーを案内して、自分のもっている大きな百貨店をみせました。一巡し終わったとき、ワナメーカーは、「この店のものならば何でもお好みにしたがってさしあげたい」といいました。そのときサンデーの求めたものは「この世界最大のデパート経営者の友情」でした。この世界を所有し、人を愛しておいでになる神の友情は、人間の求めうる最高のものです

聖書には神と人間との関係が、夫と妻、父と子、羊と羊飼いなどの交わりの関係で示されています。

3. クリスチャンの生活

クリスチャンの生活は具体的にはどんな生活でしょうか。

① すぐれた市民

キリストは「あなたがたは、地の塩である。…あなたがたは、世の光である」(マタイによる福音書5章13節、14節)といわれました。これは社会におけるクリスチャンの立場を示しています。

クリスチャンはすべての人の幸福のために働くことにおいて、すぐれた市民となるべきです。塩は腐敗をふせぎ、また食物に味をつけます。クリスチャンは義である神の品性を反映しながら、社会の腐敗の防波堤(ぼうはてい)となり、また人間関係を味わいあるものとするのです。世の光としてのクリスチャンは、正しい幸福な道を示し、人々の心を明るくしていく働きをします。神のいましめを守りこれに従って生活することは、このような生活の土台です。

② 日常生活

A ) 健康

健康は能率のよい生活のもとであるばかりでなく、品性に深い関係があるので、健康を保つために注意することが必要です。

B ) 質素

E・G・ホワイトは「質素な生活と高い思考との関係を理解しなければならない」(『教育』240ページ)と書きました。食物でも生活習慣でも、ぜいたくに流れ、外観をかざることに心がとらわれると、内面的な生活は衰えてきます。キリストの生涯は、当時の宗教指導者たちの外面的な虚飾(きょしょく)に対して著しい対照を示しました。私たちも物的生活は簡素にして精神生活の豊かさを求めたいものです。

C ) 読書、ラジオ・テレビ

私たちの心は、見たり、聞いたり、読んだりするものによって養われるので、読書の選択、ラジオ・テレビ、インターネットの番組を選ぶことが、健全なクリスチャン生活のために必要です。

聖書は、

「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」

(ピリピ人への手紙4章8節)

とすすめています。

D ) レクリエーションと娯楽

心身の疲れを回復するようなレクリエーションが必要です。自然界はそのような要求を満たしてくれます。

俗悪な映画・パーティー・社交ダンス・ゲームセンターやパチンコ、かけごと等人の心を神より遠ざけるものをクリスチャンは避けます。なんでもそれをしたあとで祈ることや聖書研究に興味がなくなることは危険です。またいろいろな奉仕活動はある人々にとって非常によいレクリエーションになることもおぼえたいと思います。

E ) 音楽

音楽は最高の芸術の一つであり、音楽ほど人の心に真理をうえつけるに強力なものはありません。しかしサタンは音楽を利用します。ある種の音楽は人の心に働いて、道徳性を破壊する悪影響を与えます。音楽の選択も十分気をつけなければならないものです。

F ) 服装

どんな服装をするかということは、しばしばその人の心をあらわすものです。服装は私たちが人生に対して持っている考えを正しくあらわすものとなるように注意しなければなりません。質素、よい趣味、清潔、それに健康的であることが大切です。外面の飾りではなく内面の美しさを求めるようにしましょう。

若い女性にあてられたE・G・ホワイトの次の言葉は服装について考えるよい助けです。

「服装によってその人の品性が判断される。洗練された趣味や教養のある知性は、単純で似つかわしい服装の選択にあらわされる。質素で清楚な衣服は、けんそんな態度とあいまって、若い女性を気高い慎しみ深いふんいきで包み、それは多くの危険から彼女を守るのに非常に役立つのである」

(『教育』294ページ)。

G ) 社交

すべての人とよく交わっていくことは、クリスチャンとしての大事な能力です。今日注意すべきことは、社交の場がクリスチャンの標準から遠ざかっている場合が多くあることです。

それに男女の交際が自由になった結果放縦になり、不幸なにがい経験となる場合がしばしばあるので、神に導かれた良識をもって行動することが大切です。

H ) 結婚

この問題は次の課で取り扱いますが、聖書は「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」(コリント人への第2の手紙6章14節)とすすめています。これは傾聴すべき判断で、夫婦の間に宗教上の相違があると、しばしば家の幸福がそこなわれ、子供の教育にも混乱が起こるのです。

クリスチャンの生活は、外から型にはめられたような束縛された生活ではなく、ほんとうの自由のある、心の満たされた生活です。

《 希望の言葉 》

青年の働きには、1日1日進歩がなければなりません。ペテロはこう言っています。「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう」(Ⅱペテロ 1:5―8 )。私たちは出発にあたって、これらの次々の階段を心の目から離さずに数えるよりも、むしろ目をまっすぐに神の栄光に注いで、イエスを仰ぎ見ることによって進歩することができるのです。1日でキリストの身長にまで達することはできません。もしこれから会わねばならない、そして打ち勝たねばならない数々の困難を目に見る事ができたら、絶望してしまうにちがいありません。私たちは、サ夕ンと戦わねばなりませんが、サタンはあらゆる工夫をこらして、私たちの心をキリストから引き離そうとしているのです。

障害に直面する

道に置かれたあらゆる障害に直面して、1度に1つずつこれに打ち勝たねばなりません。最初の困難に打ち勝ったら、もっと強くなって次の困難に対することができ、努力の1歩毎に、ますます進歩することができます。イエスを仰ぎ見ることによって、勝利者となることができるのです。弱くなり、信仰がなくなるのは、困難にばかり心を奪われて、正しいことのために熱心に戦うのをしりごみするからです。どんな高い登り坂でも、1歩また1歩と登って、ついには山の頂上にたどりつくことができるのです。一生のうちにしなくてはならない仕事が山ほどあっても、それに圧倒されてはなりません。それだけのことを、1度にやってしまわなくてはならないというわけのものではないのです。1日1日の仕事に携わる私たちの能力によって、貴い機会の1つ1つを利用し、与えられる神の助けを感謝し、進歩のはしごを1歩1歩登って行くようにしましょう。1度に1日しか生活できないということ、また、神から与えられているその1日の特権と機会をいかに尊重したかが、天の記録にあらわれるということを忘れないでいましょう。どうか、神から与えられた1日1日をよく用いて、最後には主から「良い忠実なしもべよ、よくやった」とのみ言葉が聞かれるようになってください。

                    《青年への使命》

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